わたしは今

わたしは今、とても病んでるみたい。それは悩んでいるみたいだし、息をすることをやめてるみたい。

女のひとが男のひとに依存して、別れた途端自分の大多数を占めていたものがぱっとなくなる。なにかを手放せば、その手放した分だけまた新しいものが呼ばれるように入ってくるんだとはよく言うけれど、じゃあその新しいものってなんなんだ。わたしが望んでいるくらいのものが入るのでしょうか?どんなものが入ってくるのかわからずに手放したいとも思わない、なんとも中途半端でどっちつかずみたい。

福袋を買うのにも、もっと若いころは中身を見るような性分ではなかった。好きなブランドの初売り日と福袋の値段をメモに取り、優先順位をつけて

場末のスナックは、伊豆近くのコテージの匂いがする。砂と、潮と、いくらかの夜風と、寂しさの入り混じったにおい。


ひとというのはいつでも磁石のようですね。
くっついたり離れたり、同じ大きさ、磁場同士がくっついたり、なにかの拍子ではなればなれになったり、一周回ってまたくっついてみたり。ひとつのままだと立ち止まり、動くことはないくせに、引き合うものを見つけると即座に動いて。似ていくものも似ていかないものも、おおきいもの

でもこうとも言えるかもしれない。人のつながりは音楽のようであると。ある時は浸ってその音なしでは生きていけないのだけれど、しかもその音楽のリズムにどっぷり浸ったり感情が持っていかれたりするものなのに。その喉元を過ぎたあとはどうだろう。一年前にどハマりしていた音楽など覚えてもいないわけだし、逆に1年越しにあの頃の自分が懐かしくてレコードを漁り直したりして、自分をどうにか取り戻す。

本当の自分はどこにいるのかなんて、その時聴いていた音楽による。その一点。もしくはそのとき好きであった人の影響による、その二点。

私はいま砂漠の中を水なしで、スリッポンもGoogleMapもなしで彷徨っている気分。

その人は目の横にカラスの足跡。深く刻まれたそれは笑ってついたものなのだろうか、それとも泣き顔を連ねてできた痕跡なのだろうか。私にはそのどちらなのか分からないけれど、とにかく魅力的に見えたのである。私にはない目の横のカラス。人生とにかく笑って生きてきたけれど、こんなに深く刻まれていないだろう。寂しい人というのは目の横に現れる。綺麗まっつるてんてんといった具合の肌質ならなにも言うことなどないし私が近寄っても近寄らなくてもそのひとの人生はなにも変わらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?