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間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』と私

 小説を読むとき、私は「共感」することを楽しみにしていることが多い。あるいは感情移入とも言い換えられるだろう。主人公に、登場人物たちに。たとえそれがファンタジーの世界でも、大昔の話でも、物語の中の彼ら彼女らと共に生きるその瞬間のために、ページを捲る。

 しかし、『ここはすべての夜明けまえ』は少し違った。共感ではない。感情移入でもない。奇妙にも、そこにあるのは「こことは違う世界の私の話」だった。

 この物語を要約すると、融合手術というものを受けて不老不死に近い身体になった主人公が家族史を書く話。率直に言うならば、家族愛の話なんてものは感情移入できる自信がないから私はあまり好まない。「いいなあ」という感情が勝ってしまう。
 でも、読み始めてすぐにそんな不安はなくなってしまった。老いていく父親のリアリティのある描写とか、そもそも主人公が融合手術を受けることになったのは死にたかったからだとか、どことなく不穏で。それに安心した自分がいた。歪な家族の話は、きっと感情移入ができるから。
 そして、そうだ、私も彼女と同じことをしたんだったと思い出した。

 四半世紀年表。25歳という節目に、手放したい過去の話をインターネットの海に放流したのだ。内容は(私以外はきっと不本意だろうしこんなものを私が書いたなんて親族みんな知る由もないのだけど)家族史と言って差し支えないものだし、四半世紀と銘打ちつつ26歳になる前日にやっと投稿したのだから、書き始めるのが遅いところも主人公と似ている。

 彼女は私だ、と思った極めつけの文章がある。

二〇一五年にいまはなつかしいYouTubeにアスノヨゾラ哨戒班が投こうされたときわたしはまだたん生日まえで十七才、おとうさんがくれたノートパソコンでねむれない夜にだらだらいろんなどう画をみているときにまさに文字どおりはっ見したんでした。(中略)だれがこんなすてきな曲を作ったんだろう?とおもってしらべたら名前はOrangestarさん、一九九七年うまれのおない年でびっくりしたんでした。わたしがだらだらといきてもいないけれど死んでいるわけでもないみたいな、ちょっとたべて吐いてうとうとしておきてねむれなくてあーみたいなじかんをすごしているあいだにおない年のこのひとはこんなすごい曲を作っていたんだって。

『ここはすべての夜明けまえ』P9-10
kayanoのTwitter(現在鍵垢)

 彼女も私も、Orangestarさん同い年なんだすごいって、思っていて。こんな運命があるか、と思った! 素直に驚いて、「ああ、これってやっぱり私の話なんだ」って思った。なんて奇妙な巡り合わせだろう。

 そこからはもっと夢中で読んだ。親からの執着の話、とにかく誰かと話したいって気持ち、仕向けてしまった愛。「仕方なかったじゃん」と「ほんとうに?」を繰り返すこと。
 全部違うけれど、全部わかるよって思って読んだ。主人公の名前がずっと出てこなくて、空白で、だから私はそこに自分の名前を入れて読むことにした。だって私の話だから。こんな身勝手で不可思議な読書体験は初めてだった。

じんせいでたったひとつでいいから、わたしはまちがってなかったっておもうことがしたいな。

『ここはすべての夜明けまえ』P113

 本当にそうだなあと思った。ひとつだけでも、まちがってなかったって思えたら。きっと死ななくてよかったって、生きていてよかったって思えるから。
 私は四半世紀年表を書いたときから変わっていなくて、「いま、もう少しなら生きてもいいかもしれないと思えている。それだけでいい」って思っていて。そう思えていることがじんわり嬉しい。

 この本の中の“私”は、どこへいくかはきぶんしだいですって言って、それじゃあねって言葉を最期に現実世界の私とお別れした。脳内にはアスノヨゾラ哨戒班が流れていて、「気分次第です僕は」って歌い始めて。わかるよ、わかったよって、教えてくれてありがとうって本ごと抱きしめた。

 あなたにあえてよかったな。わたしもわたしとして、しあわせになるよ。

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