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四半世紀年表

2022年、25歳を迎えた。何事もなければ80年くらい生きるとして、25年というのはまだまだ短いような気もする。しかし「四半世紀」という言葉にした途端に、響きの重さに眩暈がする。それなりに生きたのだなと思う。
これからここに書くのは、私の四半世紀の年表である。何故書くのか。それは私がもう過去を過去のものとして受け止め、どうでもよくなってしまったからだ。いや、語弊が少しある。大切な思い出たちは大切なまま、囚われていた忌々しい記憶から解放されようと思ったからだ。
私は、過去を手放そうと思う。誰に知られてもいいと思ったから、ここに残すことにする。
覚えている限りのことを掻い摘んで話すため、長く単調なものになるかもしれない。正直誰も読まなくてもいいと思っている。
ただただ、私が私として生きるために、ここに記す。


1997
7月7日。兵庫県尼崎市に生まれた。予定日は4日だったらしい。私はこの誕生日がいたく気に入っている。特別な日だ。

1999
多分これくらいの時期。一番古い記憶だ。住んでいたマンションのキッチンのタイルがターコイズブルーだったこと、リビングへ向かうドアにルパン3世の次元のようなぬいぐるみがぶら下がっていたことを何故か鮮明に覚えている。

2000
次に古い記憶だ。大阪にある母方の祖父母の家の玄関先で、両親が離婚することを母から聞かされた。そして聞かれた。
「どっちの苗字がいい?」
離婚というものが何かをわかっていなかった私は、両親が離れ離れになることと、これから母と祖父母とこの家で暮らすということだけをぼんやりと理解していた。だから、父との思い出の形を残すために父の苗字を選んだ。

2001
幼稚園ではずっと絵を描いていた。アニメはぴちぴちピッチが好きだった。ごっこ遊びも好きで、男の子に一人混じってヒーローごっこをしたりもしていた。

2003〜2006
このあたりから3つ上の再従兄弟(はとこ)の女の子からのオタク英才教育が始まる。
会うたびにVHSを持ってきてくれて、ローゼンメイデンやらルルーシュやらを見せてくれた。今考えると小学校低学年にはちょっと早い気がする。

2007
ピアノ教室の帰り道、父からの養育費が払われなくなったことを母がぼやいていたのを何故だかとても覚えている。この頃からだったか、母は父のことを頑なに「あんたのお父さん」と呼ぶようになった。

2009
小学6年生。孤立した。自分にも要因はあると思う。学年末に毎度友達と喧嘩別れして、次の学年ではまた別の友達をつくっていた。そうしたらその年、ついにクラスには喧嘩別れした元友達とまったく気が合わなそうなナルミヤブランドやLIZ LISAを身に纏った一軍女子しかいなくなってしまった。
決定打は、クラスの男子からの過度なからかいだった。バカ真面目だったから、律儀に反応した。面白がられて余計に孤立した。当時の私は孤立した原因はすべて男子にあると感じていたから、中学は女子校に行こうと決めた。視野が狭かったと思う。でもこの決断は、私の人生において三本指に入るほど正しいものだったと今は思う。
蛇足だが、当時嵐の櫻井翔くんが好きで、自分も翔くんが通った慶應に行きたいと冗談半分本気半分で言っていた。まさか叶うとは思わなかったが。

2010
無事に第一志望校に合格して、女子校に入学した。制服が可愛かったのとチャペルが綺麗だったのが決め手だった。良い先生と、良い友達に恵まれた。小学校の孤立があったから、完璧でいなきゃと常に思っていた。常に笑顔で、なんでもできる子でいなきゃと思ってそう振る舞っていた。できていたかは定かでない。
この冬、母親が乳がんになった。

2011
親友と思える子に出会った。この頃から家庭環境が荒れ始めた。優しかった祖父が反抗期に入った。お酒と煙草三昧で、母と祖母に暴力を振るうようになった。夜は食器の割れる音を誤魔化すようにイヤホンをして眠りについた。それと同時期に、抗がん剤の影響もあり母が重度の鬱になった。躁と鬱の落差が本当に激しかった。夕食の場では「こんな母親でごめんな」と泣きじゃくるのに、その1時間後には私の宿題を横から覗き見て「今の問題解けた!解けたよ!」と私のことをキラキラした目で追いかけ回してくるのだ。中身が3歳児になってしまったのかと思ったし、こちらも気が狂いそうだった。いや実際、母とは別の形で狂ってしまっていた。
この頃から私は、感情がわからなくなっていた。辛さのメーターが振り切れてしまったのだと解釈している。唯一の居場所だった学校では「とにかく楽しくいなきゃ」と完璧であろうとして、家に帰ってきたら感情の電源を落としていた。でも、人間そんなに器用なはずがない。結果的に、喜怒哀楽すべての感情がうっすらとしか感じられなくなった。それでも学校は楽しかったと思えたのだから、周りの人間に感謝している。叶わない話だが、感情がわかればもっと楽しかったんだろうなと惜しく思う。
そして、秋。ある日のことだった。学校から帰ってきたら、家に誰もいなかった。お昼ご飯らしきものが食べかけで放置されていた。しばらくして、祖母が帰ってきてこう言った。
「お母さん、入院することになったから」
当時、母の精神科への入院は私にとって珍しいものではなかった。「退院したら少しはマシになるかな」と自分の被害のことばかり考えていた。
実際1週間ほどで母は家に戻ってきたし、容態も一番酷いときに比べれば落ち着いていた。それでも暴れるときはあったが。そこからさらに半月ほど経った日、母がまたパニックになって泣きじゃくった。私はそれをぼーっと眺めていた。何の感情も湧かなかった。いや、わからなかった。そして母は言ったのだ。
「あんたは私が首吊って自殺未遂したときも助けてくれへんかったやんか!あの後みんな助けてくれたのにあんたは何も!」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。少し遅れて、ああ、あの日か、と思った。ご飯が放置されていて、祖母が遅くに帰ってきた日。あの日に、事は起こっていたのだ。そしてこの時まで誰も私にそのことを教えなかったのだ、と。
母はおそらく、このときのことを覚えていない。このときの言葉も、うっすらとしか感じられなかったなりに得た感情も、すべて私しか知らないことだった。これ以降10年ほど、私はドラマでもなんでも首吊りの描写は直視することができなくなったし、どこであっても人気のない閉じた扉を開けるときには見てもいない母親の首吊り姿が脳裏に一瞬掠める現象に囚われた。

2012
親友の後を追って生徒会に入った。学校は常に楽しかった。夜、家では隠れて泣くことが増えた。母の容態は一向に良くならない。祖父の暴れっぷりは酷くなるばかり。辛くないわけがなかった。どう考えても異常な家だった。それでも一人では泣けない。感情メーターが壊れた私は、自分では自分の感情に気づけないから。親友がずっと電話に付き合ってくれた。彼女の「辛かったね」の一言が、私の感情を見つけてくれた。本当に、本当に感謝している。

2013
高校生になった。Twitterに絵をアップするためのアカウントを作った。ずっと絵を描くことが好きだったから、美大に行きたいと思った。それを母に言うと猛反対された。
「学費も高い、就職もろくにできるかわからん、そんなとこ行かせられへん」
これが彼女の言い分だ。ついでに「偏差値がもったいない」とまで来た。学校のことで母にも祖母にもとやかく言われたくなくて頑張った勉強が仇になった瞬間だった。99点を取ったら「なんであと1点取れへんかったん?」と言われるような家庭だったので、あまり意味はなかったが。
この頃の私は奨学金を自分で借りるとか、働きながら専門に行くとか、そう言った選択肢を知らなかった。調べ不足とも言えるし、近くにそれを教えてくれる大人もいなかったのが不幸だったとも言える。精神の不安定な母に強く出られる回数は多くなく、私の美大受験の話はフェードアウトしていった。今考えると、父が美大卒であることも母の反対理由に入っていたのかもしれない。
合唱祭では中学2年ぶりに自由曲の伴奏に立候補した。もう一人クラスにピアノが上手い子がいて、立候補者二人だけを廊下に出して多数決で決められた。今更だが結構酷なことをされたなと思う。だってそこで行われている多数決は、「どちらがピアノが上手いっぽいか」という印象からのものでしかない。結果、私は選ばれなかった。この経験が私の中でとても深く根を張っていて、「私は選ばれない人間なのだ」という刷り込みがつい最近までずっとどこかにあった。

2014
この頃、学校では何もかもがうまくいっていた。絵を描くのが楽しくて仕方なかった。公募である文化祭のパンフレットの表紙や、修学旅行のしおりの表紙に自分の絵が選ばれることが度々あった。文化祭では友達とユニットを組んでmiwaのヒカリヘを演奏した。公開クリスマスでは、オーディションを経てナレーターの役割を2年連続でいただいた。生徒会での仕事も楽しかった。一方家庭は相変わらず酷い状態で、感情も戻らないままだった。
「完璧であろう」という緊張の糸が綻んできたのもこのあたりで、学校で泣くことが増えた。先生に話を聞いてもらっていた。また、恩師と呼べる人たちに出会った。非常勤講師の彼らは私の事情をおそらく知らなかったし、深く介入しようともしないでいてくれた。ただただ一生徒として可愛がってくれたのが、実はとても有難いことだったのに気付くのは卒業後の話だ。周りの友人たちの影響もとても大きかった。彼女たちは、私が私のままでいることを当たり前に受け止めてくれた。家庭では知り得ることのなかった真正面からの「愛情」を、私は学校で受け取っていた。
そして高2の終わり、SFCの存在を知った。最初は小論文の過去問だった。こんなに面白い受験問題があるんだ、と雷に打たれたような感覚がした。ここに行きたい。一目惚れに近かった。都合のいいことに、デザインも学べる。偏差値も高く学歴ブランドもあるから母にとやかく言われない。上京することになるからあの家からも離れられる。良いことしかなかった。

2015
受験生になって、塾に通い始めた。一度SFCのAO入試を受けて落ちた。夏には学校の芝生で水遊びをして「風邪ひくよ!」と先生に怒られた。冬には陽が落ちてからiPhoneのライトと一眼レフを使って写真遊びをして「もう遅いから帰りや!」とまた別の先生に怒られた。誰も「受験生なのに」とか言わなかった。良い学校だった。
この年に同じクラスだった6人組が、卒業してからもずっと一番仲が良くて一番心を許せる存在になるとは当時思っていなかった。
センター試験前日、その3ヶ月ほど前に受けた早慶模試が返却された。学部内順位が、全国総合1位だった。小論文だけでも1位、英語は2位だったか。その帰り道、人生で初めて本気で死のうと明確に思った。こんなものは自信になんかならない。とてつもないプレッシャーだ。これで「落ちる」はあり得ない。今死ねば、「惜しかったね」「生きてたら第一志望に行ってたはずなのにね」って言われる。もうすぐ電車が来る。ここで一歩踏み出せばいいんだと思った。そのときウォークマンのシャッフルで流れてきたのが、「それがあなたの幸せとしても」だった。足が止まった。涙が止まらなかった。
SFCに受かった。部屋探しと下見に行った。オープンキャンパスのときもそうだったが、「慶應大学行き」のバスの表示がなんだか誇らしかった。やっと合格の実感が湧いた。体調も随分と良くなった母が言った。
「私は経済学部行ってほしかったな」
第一志望に受かった娘に今かける言葉がそれだったのか。
「でもあんた自分で決めたらもう動かんってわかってるからな」
私が美大受験したかったことなんか忘れてるんだろうな。母は、私のことを何もわかっていない。当然だ。私は中2から、この人に本音をぶつけたことがほとんどないのだから。

2016
上京し、SFCに入学した。サークルはたくさん兼サーしたし、知り合いもたくさんできた。そのうちのひとつがアコースティックギターをメインにした音楽サークルだった。高校2年のときに友達とmiwaのヒカリエを文化祭で演奏したのが楽しかったから、「アコギを弾く」というより「アコギと合わせたくて」そのサークルに入った。そのサークルで流れる穏やかな時間が本当に好きだった。
また他のサークルでは広報係をしていた。とても良くしてくれる先輩がいた。「俺は絵を描くの諦めたけどお前は描けるじゃん。デザインもできる」と言われたことをずっと覚えている。イラレの基本的な使い方はそのサークルで学んだ。しかし、幹部が同期になったタイミングでトラブった。今となっては些細な内容だが当時の私にとってはあまりに不当な扱いをされていて、中学ぶりに「怒り」の感情を獲得した。親元を離れたこともあってか、そこから少しずつ感情を取り戻してゆく。
1年生の春学期はデザインの授業を取らなかった。「キャパオーバーしたら怖いし」というのが言い訳だった。実際は、自分の実力がたかが知れていることを痛感するのが怖かったのではないかと思う。
大学から急行で一駅のところのマンションに住んだら、同じクラスの女の子がたまたま同じマンションで仲良くなった。私たちはどこか似ていて、一緒にいて心地よかった。「大学の友達」と言われたら今でも真っ先に彼女のことが思い浮かぶ。
大切な友達はもう一人いる。Twitterで仲良くなった二つ下の女の子。この年、彼女に初めて会うために新潟に行った。生まれも育ちも何もかも違うのに、私たちはどこか似ていた。好きなこと、目指す方向が一緒だからだろうか、一緒にいると自分が無条件に肯定される心地がした。

2017
1年生の終わりに友人のミュージカルサークルの公演を観に行ったことをきっかけに、そのサークルに入った。「演劇は来世でいいや」と思っていたけれど、やっぱりできるなら今世にしたいと思ったのだ。トラブった方のサークルは辞めた。
デザインの授業もそれなりに取り始め、デザイン系の研究会にも入った。どストレートなグラフィックデザインが学びたかったけれど、SFCにそれはなかった。でもデザインを学べることが嬉しかった。また2年から学芸員資格を取るために三田キャンパスに通い始めた。そこでの出会いも、後々かけがえのないものになる。
そしてこの年、私はインターネット厄年と言って過言ではない状態だった。
「どうしてそんなに自信が持てるんですか?」
周りの流れに乗って始めた匿名質問ツールで送られてきたその質問は、純粋な疑問のようにも悪意のあるものにも読み取れた。私は馬鹿正直に、本当のところ自信はないがそういう風に見せられたらいいなと思っていること、中高6年ミッションスクールで「あなたは愛されている」と毎日言ってもらえた経験から根底には絶対折れない何かがあるのかもしれないということを返事した。
そこから。
「自分を過信しすぎじゃないですか?」
「自信満々すぎ」
次々と届く、今度は明確な悪意を持った言葉たち。まだ素直だったから、若かったから。すべてにきちんと言葉を尽くして返事した。私の心は明らかに疲弊していた。しばらく経って落ち着いたと思えば、次は捨て垢が水曜日のダウンタウンのコラ画像で「カヤノのデザイン説明されないとわからない説」と度々送ってきた。しかもご丁寧に私がこれまで作ったロゴ のコラージュ付き。最終的に「説明なしでわかるものが見たかったら洗濯表示でも見てろ!!!!!」に落ち着いたが、それらのロゴたちは私だけのものではなく、頼んでくれたサークルその他の友人たちがいたのだから友人たちに申し訳ないなという気持ちは消えなかった。
そこから数ヶ月後。とあるサークルの友人と久しぶりに話す機会があった。その子は別れ際に言った。
「あの匿名箱の質問、送ったの私なんだよね」
謝るでもなく去っていったその子に、呆然とした。
「あの匿名箱の質問」というのがどこまでを指すのかはわからない。でも最初のひとつだけだとしても、人間不信に陥るには十分だった。
大学の人には誰にも相談できなかった。その子に対する印象が私の一声で変わるのが怖かった。

2018
3年生。ミュージカルサークルの新歓公演の作演出を担当することになった。右も左もわからなかった。これまでの人生、小説は趣味でたまに書いていた。でも小説と脚本ではわけが違う。たくさん迷惑をかけた。自分自身もボロボロだった。一睡もする暇のない毎日だった。本気で死にたかった。それでも出来上がった舞台は、ちゃんと「私の物語だ」と言えるものだったと思う。二度と経験したくなくて、一度は必要な日々だった。
三年生はそれと同時にアコースティックサークルの副代表にもなった。何もかも両立が下手な私がどれくらい彼らの役に立てたのかは定かではない。ただ、居心地のいい優しい空気が私は大好きだった。
秋。学校主催の研究会の大きめの催しがあった。誰もやりたがらないチームリーダーにさせられた私はここで明確に心を壊す。やる気のないチームメイトに指示を出しても何もしてこない。毎週の進捗報告で教授に怒られるのは私だ。何ひとつ上手くいかず、誰も助けてくれなかった。研究会のことを他所で話すと自然に涙が出た。ここからずるずると、心身の体調が回復しないようになる。
この時期、嫌だと言ったのに母親が私の一人暮らしの家に押しかけてきた。部屋を見て「汚い!こんな家に友達泊めてるん?可哀想や。みんな言わんだけで汚いって思ってるで」と言われた。「みんな本当は良くない風に思ってるけど言わないだけ」というのは私が長年不安に思いながらやっとそんなことないはずだと思えてきた事項だったため、トラウマを掘り返されて再びしばらく人のことを信じられなくなった。

2019
就職活動。卒業制作。普段の授業。日常生活。どんどんと手から零れ落ちていって、全部ダメになった。夜眠れなくなった。訳の分からない焦燥感に泣き出す寸前の感覚がずっと続いた。
「あなたは何がしたいんですか?」
面接でも卒制のエスキスでも同じことを聞かれ、いずれも上手く答えられなかった。就活は大手の広告代理店と出版社、印刷会社だけ受けていた。どこにも行きたくなかった。何もしたくなかった。早く死にたかった。
春学期末、なんとか卒制の前半最終発表を終えたあと。一番最後に出した企業のお祈りメールを見て、休学する決心がついた。ここで立ち止まらないと、二度と立ち上がれないほど壊れる気がしたから。
母親に休学のことを言うのが怖かった。それで死なれたらどうしようと思った。その責任を負いたくなかった。まず母親の弟である叔父に今の実家の状況を聞いて、私の状態を伝えた。当時叔父が一番実家の状況を冷静に観測している人物だったからだ。叔父は名古屋から神奈川まで飛んできてくれた。私に家族っていたんだ〜とぼんやり思った。叔父と一緒に実家に帰り、母親と祖母には就職活動がうまくいかなかったのを理由に休学したいと伝えた。心のことは言えなかった。さすがに察されていたかもしれないが。
学芸員資格のことで学事とバトった。文学部の授業は通年のものがあるため、要綱にある休学や留学した場合の分割制度を使いたいと話したところ、三田キャンパスの学生にしか適用されないと言われたのだ。文学部の先生に相談したら、お力添えしてくれた。私が今まで出会った中で一番メールの文章が美しい先生だった。そうして私は無事に学芸員資格の授業も休学明けに再開する運びとなった。
文学部にはもう一人恩師がいる。私が就活帰りにリクルートスーツで授業に出たら「就活ですか?頑張ってくださいね」と毎回声をかけてくれた優しい先生。休学することを伝えると、「あなたは真面目で優秀な方だと言うのはこの一学期でとても伝わっています。きっと大丈夫ですよ」と言われた。すべての自信を失っていた私はその場で泣いてしまった。そんな私に先生は名刺をくれた。いつでも連絡してください、と。その先生とは今でも連絡を取り合っている。

2020
休学の日々は、白紙だ。無理に予定を入れた日と休学してから始めたアパレルのアルバイトの日以外はベッドから動けなくて、朝4時まで眠れなかった。ずっと体調が悪くて常に微熱だった。目覚めると夕方の日も多々あった。本でも読めばいいのに、絵でも描けばいいのに、まったくできずにTwitterを眺めているばかりだった。好きなことをすることに罪悪感があった。就活も卒制も、やるべきことを何もしてないくせに楽しいことをやってはいけないという呪いにかかっていた。今なら、全然そんなことないってわかるのに。
サークルには顔を出した。
「なんで休学したんですか?」
「きっと何か明確にやりたいことがあるに違いない」とキラキラした瞳で聞いてくれた後輩に、「社会のこと全然知らないなと思って」みたいな適当な言葉でお茶を濁した。例の匿名質問女は私が休学することを周りに言いふらしていた。私にTwitterをブロックされたことを「何かしちゃったかな〜?!😢」と喚いていたのも後から知った。
ずっと一人で家にいると気が狂いそうになる。ただ、ずっと考えていた。実家とのこと。これからのこと。何がやりたいか。何がやりたくないか。自分とは何なのか。どうして生きているのか。どうしてこんなに死にたいのか。全部答えが出なかったけれど、それなりに自分の人生を客観視できるようになった気がした。この頃やっと、実家の異常性と自分の自我の芽生えがつい最近だということに気づいた。
秋学期、復学した。単位は全部取った。卒業制作も無事終えた。学芸員資格も取得した。すべてを終えてから就活を再開した2月。もう来年度頑張りなおそうかと思っていたところで一社、デザイン事務所から内定をもらえた。アパレルのアルバイトをしているときに新作POPやTシャツのデザインを見ながら「私ならこうしたいな」なんてことばかり思い浮かぶものだから、やっぱりデザインがしたいのだとある種の諦めがついたのだ。だから、デザイナーになることを決めた。
研究会の卒業祝いで教授から個人宛にメッセージをもらった。あの3年の秋のことに対して「随分と負担をかけました」と書かれていた。今更だなと思った。研究会には好きな先輩や友人が多くいたが、教授とは最後まで馬が合わなかった。でも、感謝はしている。悪い人じゃないのもわかっている。ただ、私の恩師には数えられないだけ。
卒業式はha|za|maのワンピースを着た。髪もピンクに染めた。なんだか人生の最終回みたいだなと思った。

2021
表参道にある小さな事務所でグラフィックデザイナーとして勤め始めた。デザイナーはADである社長と、夜間専門卒の2年目の女の先輩と、同期の男と、私だけ。最初の頃は、自分にやるべきことが明確にあるだけで嬉しかった。学生より社会人の方が遥かに向いている。私はオンオフの切り替えを自分でするのが下手だから、退勤と同時に強制的にオフに切り替わるのは都合が良かった。
社長は男女差別が激しくて、男に厳しかった。同期は1ヶ月で鬱と適応障害のダブルパンチで辞めた。仕事に慣れてくると、だんだん冷静になってくる。無茶な納期の仕事が多い。それ自体は業界の気質かもしれないが、そういう話ではない。企画の時点でふわふわしている。コピーライターから取材の文章が上がってこない。そのまま納期3日前。深夜3時まで先輩と2人でなんとかつくった8ページの冊子は、翌日出張から帰ってきた社長が半笑いで「全然ダメだな(笑)」とちゃんと見てもくれない。そうして社長が3時間ほどで、一からまったく違うものをつくって納品する。そんな仕事ばかりだった。だんだん、帰り道に音楽を聴きながら泣くことが増えた。朝、会社のマンションの前で立ち止まる時間が伸びた。夢の中でも仕事する。自分のつくったデザインを馬鹿にされる。デザインは好きで、でも、全然うまくなる感じがしなかった。少しずつ力はついていたのかもしれないが、それはあまりに遠回りに思えた。
この夏、新しい趣味ができた。絵も小説も再びかけるようになった。かいていないと、現実を直視するとダメになりそうだった。

2022
3月。本当に辛い案件があった。ひっそりと転職活動の準備をして1社だけ応募したが、落ちた。
4月。成人式ぶりに母校を訪れた。もう何年も経っているのに恩師たちはみんな私のことを覚えてくれていて、久しぶりに受け取る愛に涙が出そうになった。ああ、私は生きていていいんだと思った。
夏。ひょんなことから、趣味の方で創作ユニットを組むことになった。人生で初めてのことだった。ものづくりはずっと独りだったから、自分ひとりではできないことができるようになるのが楽しくてたまらなかった。
そして、8月の終わり。限界が来た。休学直前の感覚に似ていた。会社を辞めた。転職エージェントを使っての転職は、案外すんなりと成功した。
10月。前職の3倍ほどの規模のデザイン事務所に入社する。すべてが前職の上位互換だった。ここでなら、私は自分のやりたいデザインのために力をつけられると確信した。

現在
生きている。これだけ散々でも手首に傷ひとつない。髪色は毎月変わる。好きな服を着て電車に揺られている。家に帰ったら趣味のことをしている。私のつくったものを、好きだと言ってくれる人たちがいる。ここまで読んでくれたあなたがいる。
四半世紀、生きた。人生計画は24歳で止まっていて、正直もう長生きしすぎている。25年間、これまで書いてきた通り散々だった。色々あった。不運だった。愚かだった。若かった。弱かった。
だから、そんな過去はインターネットに放流してしまおう。誰も読まなくてもいい。ただもう、私はこれらを手放したいのだ。
いま、もう少しなら生きてもいいかもしれないと思えている。それだけでいい。
もう少し生きるから、またいつか、どこかで。

放流した過去を見届けてくれて、ありがとう。
ここに出てこなかったあなたも覚えてるよ。
私を私にしてくれて、本当にありがとう。

カヤノ

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