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象と月

誰かを愛するということに、条件がないのはわかっている。自分の心が向くままに人を愛せばいいのだ。なのに、私はどうしても自分が”愛を抱く”に相応しい人間だと思えない。それはなぜか。自分が欠陥だらけだからだ。

抗精神薬を飲み、情緒はほとんどの日が不安定。元気な日のほうが少ない。
過眠のタイミングに入れば夕方頃まで眠ってしまい、過食もする。運動をするだけの気力がなく、体重は増加する一方。こんな草原にただ横たわっている象のような女を、一体誰が愛し返してくれるというのだろう。そんな風に、いつもうつむいて考えてしまう。

価値観の違う人と話すことで気づいたのは、私は自分の中の固定概念に、自分が思う以上に縛られて生きているのかもしれない、ということだ。女は女らしく、つるつるの毛がない肌で、髪もきれいにまとまっていて肌も荒れておらず、小綺麗でないといけない。そして、すらっとした体躯でなければいけない。そういう人でなければ、恋をする資格がない。これはある種の強迫観念のようなものだと思うし、こういう考えを持ちながら生きるのはつらく、心身に悪いということも分かっている。けど、どうしても考えてしまう。自分は恋、という上流階級が嗜むようなものを楽しめない、ちゃんとしていない女で、もしかしたらずっと、誰も愛せないまま、誰からも愛されないまま人生を終えるかもしれないという、重たい不安。努力をすれば変われるかもしれない可能性を感じながら、身体が重たくて動き出せない焦燥。ーーそんな水を吸った泥のような感情と、常に隣り合わせで生きている。

大好きな映画たちは、私に愛のすばらしさを説いてくれる。説く、というより、ささやいてくれる。恋はすばらしい、人を愛することは何よりも代えがたい。
分かっている。分かっているのだ。私だって人を本気で愛してみたい。誰かを想って世界がより広がっていくのを、輝き出すのを経験してみたい。綿毛がはらはらと宙に舞うだけで涙するような感性を覚えてみたい。一日の終わりに、誰かを思い出して明日の希みにしたい。

自分の、ぶよぶよとしたお腹を触る。にきびのできた頬を触る。
ああ、”まだ”だめだ。”まだ”、私は恋をするにはほど遠い。

いつしかそう思わなくてもいい日が、私が私のままでいられるのを許される日が来てほしい。だらしなくてみっともないところまでも受け入れて生き、恋ができるようになるのは何年後だろう。分からないけれど、歳をとってみれば変わるだろうか。女として生きる日々を積み重ねていけば、この凝りもゆっくりと解けていくだろうか。

象は草原の真ん中で月を見る。月に恋しているが、その手は届かない。
でも、想わずにはいられないのだった。恋という甘いものを、おいしそうに咀嚼している自分を。

いつか、そう、いつになるかは分からない"いつか"。
私は私のままで恋がしたい。

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