季節はめぐり - 第一話
あらすじ
大通りから外れた個人経営のカフェでアルバイトとして働くフリーターの香坂悠月。彼女は、新しく入ったアルバイトの秋本真衣が、大学時代の軽音サークルの後輩だったと知らされる。カフェで悠月を見かけたからアルバイトに応募したと言う真衣との距離感を掴みかねながらも、悠月は彼女との会話の中で大学時代の記憶を思い出していく。少しずつ心を打ち明け、別れたばかりの恋人のことを想いながらも、悠月は真衣との接し方を探っていく。
彼女が初めてお店に来た日の朝は、雨が降っていた。
天気予報を見ていなかった私は、玄関のドアを開けたところでうす暗い曇り空に気付き、ため息交じりに傘に手を伸ばした。手元を見ずに取った傘が明奈の傘だったことに気付いて、思わず舌打ちしてしまう。
次の不燃ごみで絶対に捨てようと心に誓いながら、自分の傘を持ち直した。
マンションの階段を下りて表に出たところで、霧みたいに細い雨が顔に降りかかった。慌てて傘をさす。
雨の日は嫌いだ。ただでさえ癖っ気のある髪の毛が、さらに言うことを聞かなくなる。とくに、今日みたいな細かい雨が一番嫌い。傘をさしていても、風にあおられた水滴が霧吹きみたいになって私の体を濡らしてくる。
駅に向かう通勤の人たちに並んで、少し早い足取りで大通りを歩く。途中で右に折れて路地に入り、コンビニや古い住宅が立ち並ぶ中、控えめに佇むカフェのレンガ色のオーニングの下に逃げ込んだ。
家から徒歩五分。勤務先としては好立地すぎるそのカフェは、決して目立つ場所にあるわけじゃないのに、駅と大通りが近いおかげか、客足が少なくて困るということはめったに無かった。
ようやく雨空から逃れられたところで、閉じた傘を振って水滴を飛ばし、ハンドタオルで髪の毛を軽く拭く。癖っ気なのがイヤでショートにしているけど、雨の日は結局毛先が跳ねてしまう。
こうなってしまうとどうしようもない。ある程度のところで諦めて、あとはお店で着替える時に整えることにする。
タオルを鞄に仕舞い、かわりに煙草の箱を取り出す。
一本だけと思い火をつけて、煙を口に含みながら、ぼんやりと駅へ向かう人たちを眺める。
ちゃんとしている人たち。私には馴染めなかった世界の人たち。この人たちは本当に幸せなんだろうか。あるいは、私もそっち側に行ければ幸せになっていたのか。毎日繰り返してる、答えのない問い。
深入りしすぎないうちに、店先の灰皿に吸い殻を捨てて、「CLOSED」の看板がかけられたカフェのドアを引く。見慣れた店内。ドアベルがからんからんと心地良い音を立てる。
「おはようございます」
「おはよう」
カウンターの向こうで準備をしていたオーナーに挨拶する。いつも通り、さわやかな笑顔が大きな黒い丸縁めがねの向こうに見える。年齢はもうおじいちゃんの域に踏み込みつつあるのに、見た目はとても若々しくて、少し白髪が混じり始めた短髪以外には老いの要素を見つけられない。
若いころはモテたんだろうな、なんていつも勝手に思ってる。いや、今でももしかしたらモテるのかもしれないけど。
「あっ、香坂さん」
「はい」
スタッフルームに向かうドアに手を掛けたところで、オーナーに声をかけられる。
「今日、新しい子来るから」
オーナーはとくに何かを期待する様子も見せず、淡々と言った。私も同じように答える。
「わかりました」
それだけのやりとりを済ませて、私はスタッフルームに入る。
先週、一年くらい働いていた学生アルバイトが、卒業研究に専念するためにここを辞めた。今日来る子はその子の代わりだろう。私以外のスタッフは定期的に入れ替わるから、新しい子が来るのは別に初めてのことじゃない。
建物の隅、空きスペースに作られたロッカールーム。電気をつけると、三人くらいしか入れないコンクリートむき出しの狭い部屋が、蛍光灯ひとつで弱く照らされる。私は自分のロッカーの中に手早く鞄とコートを放り込み、少し皺が寄った紺色のエプロンを身につけた。
そこからは、毎日同じ朝のルーチンを済ませる。
まずはお店の床をモップで軽く拭いたあと、六つのテーブルの上にひっくり返してある椅子を順番に下ろしていき、テーブルの上を除菌用アルコールで拭き上げる。椅子を綺麗に整えて、ごみやほこりがついていないかチェックする。
テーブルと椅子の掃除が終わる頃には、オーナーが「日替わりメニュー」のシートを書き終えているので、メニューのクリアファイルから昨日のシートと入れ替えて、各テーブルに置いていく。
小さなお店だから、慣れてしまえばこの朝の作業は一人でもすぐに終えられる。
テーブルの準備が済んだらオーナーと一緒にカウンターに入って、今日使う分のカップやお皿、カトラリーをアルコールとタオルで拭いて、微かに残っている食洗器の水垢を丁寧に落としていく。
料理の下準備をしているオーナーとは一切喋らない。毎日決まったことしかやらないから、喋る必要もない。
カップを一通り拭き終わったところで、ドアベルがからんからんと音を立てた。
入り口を見ると、ひとりの女の子がお店のドアを半分開けて、恐る恐るお店の中を覗き込んでいる。
「おはようございます」
「おはよう、どうぞ、入って」
オーナーがそう優しく声をかけたから、彼女が「新しい人」なのだと察した。お店の中に入ってきた彼女とばっちり目が合い、私は軽く会釈する。彼女は緊張しているのか、苦笑いをするように微笑んで、ぺこりと頭を下げた。
なんとなく見覚えがある子だな、と感じた。でも、どこで会ったのかは思い出せない。
「挨拶は後にするとして、まずは準備してもらおうかな。服はそのままでもいいし、もし汚すの嫌だったらこれ着て。あの子みたいにエプロンつけてね」
オーナーが私を指差しながら言う。
「はいっ」
「ロッカーはそこのスタッフルームの奥にあるから」
「はい!」
オーナーに制服とエプロンを手渡された女の子は、明らかに緊張した様子で返事をしていた。
しばらくして、スタッフルームから出てきたオーナーに呼ばれ、私は手を止める。そこには、水色のワイシャツと黒ズボン、その上に真新しい紺色のエプロンを着けたさっきの女の子が立っていた。彼女はオーナーに促されてお辞儀をする。
「秋本真衣です。よろしくお願いしますっ」
彼女の挨拶にあわせて、私も頭を下げた。
「香坂です」
私が言うと、彼女はにこりと愛想良く口角をあげる。
「今日はお客さんも少ないだろうから、香坂さん、一通り教えてあげて」
「わかりました」
オーナーはそれだけ言って、またスタッフルームへと引っ込んでいった。後に残った秋本さんは、メモ帳とペンを両手に、前のめり気味で私のほうを見ている。
「こういうカフェ、っていうか飲食のバイト、はじめて?」
「はい、初めてです」
「ん」
予想通りの回答。雰囲気からしてそうだろうなと感じていた。
今までの新人教育の経験から、彼女に教えるべき内容のレベルを補正する。新人に仕事を教えるのははじめてじゃない。もう七回目か八回目くらいになると思う。それだけの人を見てくると、何から教えれば効率よく覚えられるかとか、要領の良さとか記憶力に対してどこまで教えられるか、といったラインが自然と掴めるようになる。
腕時計を見る。午前九時過ぎ。いつのまにか雨は止んでいて、窓の外から微かに差し込む朝日がきらきらと輝き、店の前を歩く人たちで時々影ができていた。毎日見慣れた光景。そんなお店の中でいつもと違う、見慣れない新人。
「学生?」
そう聞くと、秋本さんは首を横に振った。
「いえ、えっと、大学は出ています」
秋本さんは確実に私よりは年下に見えるけど、たしかに、いつも来るそのあたりの大学生とは少し違う雰囲気を帯びていた。
いつもの新人を迎える時とは違う、不思議な予感がした。
その予感の正体が何なのか、この時の私にはまだわからなかった。
「じゃあ、まずは食器の場所から」
「はいっ!」
秋本さんの健気な返事は、どこか懐かしい響きがした。
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