そっと歩く Step Softly in San Francisco

 微かなオイルの匂いが鼻腔をそっと撫でた気がして、祖父を亡くした時のことを思い出した。

 そのとき、僕はサンフランシスコにいて、葬式には出席していない。アメリカに留学していて、冬休みの旅行で西海岸をカナダのバンクーバーから南下していた途中だったのだ。
 なぜ、一時帰国して葬式に出なかったのだろうか。別に後悔しているわけではない。葬式に出ても、そこに祖父はいないのだ。
 
 日本を発つとき、祖父にはお別れを済ませていた。端から見れば、それは一時のお別れだが、僕にとっては違った。祖父がもう長くないことは知っていたからだ。おそらく、一年の留学から戻ってくる頃には亡くなっているだろう。自分の中ではそれが最期のお別れだったのだ。祖父もわかってくれていた。だから、未練はなかった。
 自分はもしかしたら薄情なのかもしれないと初めて認識したのは、このときだったように思う。連絡を受けたときも、とても冷静だった。心の中に芽生えたのは、悲しさや寂しさではなく、感謝と労いだった。

 亡くなる少し前、秋口だっただろうか、電話で祖父と最後に話したのは。
 そのとき、すでにちゃんと話せる状態ではなかったようだ。ボケも多少あり、記憶もはっきりしていないと家族から聞いていた。それでも、電話口の祖父は思った以上にちゃんとしていて、声もはっきりしていた。家族はとても驚いていた。あんなにはっきりと会話をする祖父を、長く見ていなかったのだ。それから亡くなるまでも、見ることはなかったと話していた。
 僕は、それが素直に嬉しかった。
 あんなに祖父の愛情を感じたことはなかった。
 最期に、それを知れてよかった。
 サンフランシスコの街中で、一人、祖父を想ってゆっくり歩いた。それで十分だった。

 目を開けて、合わせていた両手を静かに離す。ゆっくりと立ち上がり、少しだけ墓石に触れて、そっと歩き出す。
 あの街には、まだ祖父の匂いが残っているだろうか。

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