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《記録》2020/5 にちようびのアトリエat zoomをふりかえる②

・・・ ①からのつづき ・・・


-----6. 信頼すること

 連休中だったこともあって、お父さん、お母さん、兄弟揃って、みんなで一枚の絵をつくっていた家族もいた。いい感じの距離で、こどもを見守る家族もいた。

 zoomでは、それぞれのお家の様子が見えてしまう。こちらは主宰する側だから、見られて当たり前…とは思ってはいたけれど、やはりプライベートな場所に入り込むことは今までとは別の配慮が必要だ。 
 アトリエが終わって数日後、ある保護者の方が「やっぱり疲れたよね!」と率直に言ってくれて、わたしはハッとしながらも、うんうん、と思った。言葉ではまだうまく言えないけれど、会うのとは違う緊張感をどこかでお互いにピンと張っていたのだろう。ちょっとした違和感を言い合える関係でいたいな、と思った。
 信頼すること。開かれていること。これからもたいせつにしよう。


-----7. 自分のペースでいられる場所

 これはわたし自身の個人的な気質の話になってしまうのだけれど、集ってなにかをするとき、どうしても集団としてぼんやり捉えてしまうところがあった。場の雰囲気を見てしまって、ひとりひとりが見えづらい。だから、<その子>を見るには、どこに立てばいいのか、何をしたらよいのか、が今までの教室やアトリエでの課題だった。
 けれどPCの前に座れば、定点観測することができた。わたし自身が動かなくてよいことが、心を落ち着かせ、視線を自由にしてくれたのかもしれない。動かない分、四つに分けられた画面からひとりひとりが見えてきた。
 カメラの位置もあって、ほとんど手元が見えないから、絵を描く過程を見ることはできなかった。けれど、こどもたちの表情を見ていれば、その子がどんな心で今と向き合っているかがわかった。これは、全体を見ていたときには情報が多すぎて見えなかったことだ。極端かもしれないけれど、そこだけを見ていくのが自分の仕事だとも思う。ある面で言えば、絵を描くことは目的ではないのだから。

 「◯◯ちゃんはできたから休憩にしよう」、「◯◯くんは30分後にまた集合ね」「ちょっとおやつ」。それぞれそんなことをするのもお家にいる今は可能だ。
 こどもが学ぶとき、本来はこういうそれぞれのペースでいられる場を用意したい。特に、絵を描いたり、音楽を奏でたり、芸術に関わる面では、自分のペースでいられることが何よりもいちばん大事だから。(もちろん、公教育でできること、習い事でできること、お家でできること…それぞれの役割がある。)

 数日間のアトリエを終えて、いつもよりひとりひとりのペースが見えてきたようにわたしは感じていた。それは隣にお父さん・お母さんがいて、ずっとサポートをしてくれたおかげなのだけど、いつもと違う何かを通してだったからこそ気付けたことでもあると思う。
 オンライン授業が当たり前になってくれば、今回のような感じ方は変わってくるかもしれない。備忘録も含めて、最初の印象を記録に残しておきたかった。

あやちんの絵1

あやちんの絵2

こうたんの絵



-----8. 欠けてる分だけ、なんとかするのだ

 最後に。
 アトリエの話ではないのだが、書いておきたいことがある。

 連休中、耳の聴こえない友人と数人でzoomでおしゃべりをした。その友人は補聴援助システムというのを使って、わたしたちの声を聞いていた。きっと、会話のすべてが聴こえているわけではないのだろう。音を拾いすぎるから、聞き続けるとひどく疲れるのだ、とも話していた。 
 でも、それ以上にその友人には伝えたいことがあり、聴きたいことがあり、人と関わりたいという気持ちがあった。それが画面から伝わってきて、馬鹿みたいにわたしは心が動いてしまって、ものすごく動揺した。
 それは、<人と人がコミュニケーションをする>ことの、ずっとずっと根っこの部分を見せてもらったように感じたからだ。普段わたしがしている、「喋る」とか「聞く」という行為なんて、友人のそれにくらべたら、水面のさざ波ほどのものかも…なんて思ってしまったぐらいだ。

 例えばわたしは、しゃべることもできるし、聞くこともできる。なんの苦労もなく。でも、ほんとうに口と耳を使っているんだろうか?
 いつもより伝わらないから、なんとかして伝えようとする。いつもより見えないから、違う角度で見ようとする。いつもより聴こえないから、声の調子やちいさな震えに耳を澄ます。何か不自由さがあるとき、人はなんとかしてそれを越えようとする。持ってるものを総動員して。わたしが感動したのは、そういう、心の向きのことだ。こどもたちはいつだって本気でそれをやっているんだから。

 zoomには、<実際に会うときの何か>は確実に欠けている。だけど、欠けてる分だけ、わたしたちはそれをなんとかしようとするのだ。そこにいないから、遠回りして話をしたり、指示を的確にしたり、頭と感覚をいつもより全開にして目の前の人と向き合おうとする。少なくともわたしはそうだった。
 今は、できないことよりも、そっちを見ようと思う。そういう心の向きを、たぶん、やさしさって呼んでいいんだとも思う。だから、会えなくたって、できることがある。

 ・・・ 協力してくれたみなさん、ありがとうございました。 ・・・

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