喧嘩とアズサ


「ただいま~」
「なにかあったの?」

わたしがいつもより疲れていることを即座に察してくれたのであろう。見ていた映画を一時停止してアズサが心配そうに声をかけてくれる。

「いや、なんでもないよ。今日はちょっといつもより忙しかったんだ」
「ふーん、そっか」

わたしがそれ以上話すつもりがないとわかるとアズサはまた映画を見始めた。
部屋着に着替えたわたしはソファにいるアズサの隣に座る。

私たちはしばらく無言で映画をみていた。ご飯を食べているシーンでアズサがふと映画を一時停止して話しかけてきた。
「おなかすいたー、ごはんなんか頼もっか。りょうちゃんもご飯まだでしょ?」
「あ、うん」
「アズサ、カレーが食べたいな~」
カレーか…。今日はランチもカレーだったので内心他のものが食べたかったが、アズサがそう言うならまあいいか。
「じゃあカレーでいいよ」
「決まり!アズサのスマホで注文するね。りょうちゃんの注文おしえて?」
そう言われてメニューを見るも当然ながらこれといって食べたいものがない。スマホの画面を無表情でスクロールし続けるわたしに気づいたのだろう。アズサが聞いてきた。

「今日、なにがあったの?」
「あのね」
「うん」

わたしはアズサに対し、それがいかにも重要な出来事のように詳細に語ってみたものの、まとめればこうだ。職場の同僚の話にわたしは異論があった。しかしわたしは自分の意見に強いこだわりがあるわけでもないので「それでいいよ」と言ってしまった。以上。
こんな日常茶飯事が時にわたしをひどく疲れさせるのだ。聞き終えるとアズサは「りょうちゃんはみんなに優しすぎるんだよ」と諭すようにわたしに言った。

「そうかなあ」
「そうだよ」
アズサの声色が変わった。

「りょうちゃんのそういうところ、りょうちゃん自身がかわいそうだよ。みんなに優しいのも素敵だけど、りょうちゃんはもっと自分に優しくなったほうがいいよ」
突然アズサがイラついているような口調になったのでわたしは少し驚いてしまった。

「自分の気持ちと他人の気持ちのどっちを優先するかっていうのは」
アズサが半ば怒り気味に語ってくる。
「他人と喧嘩するか自分と喧嘩するか、ってことじゃん」
「え?」
「この人と喧嘩したくないから自分の気持ちを誤魔化そう。それって自分のウソの気持ちが自分の本音を殺して、他人の気持ちを生かしてるってことでしょ?でも、どうせ自分の本音か他人の気持ちのどちらかしか生かせないなら、ウソの気持ちには、本音じゃなくて他人の気持ちを倒してほしいじゃん。だってウソの気持ちだって自分自身なんだから」

わたしはアズサの言葉を一生懸命理解しようとする。

「あーん、うまく言えない。じゃあいまから言うのを想像して。

まず3人を横にならべる。左から、『自分の本音』、『自分のウソの気持ち』そして『他人の気持ち』。
『本音』と『他人』が対立しそうになっている。その真ん中で『ウソ』がどちらの肩を持とうかと悩んでいる。
『他人』を怒らせたくないと思った『ウソ』は『本音』を殴った。すると『本音』は泣きながらうずくまってしまった。『ウソ』は『本音』を見捨てて『他人』とどこかに行ってしまった。

どう思う?」
「『本音』がかわいそう」
「なんで?」
「『ウソ』が自分よりも他人を尊重したから」
「それがりょうちゃんのやってることだよ」

アズサの言わんとすることがぼんやりと理解できるまでの数秒の後にわたしはハッとした。つまりは、わたしは自分の本音を潰してまで他人の気持ちを大事にしていた、ということなんだろう。

「もちろんお互い歩み寄ったり相手に譲ることも大事だよ。でもいつもそうしなきゃいけないわけではないの。今日みたいにいつまでもモヤモヤしちゃうようなときは自分を大事にしていいときなんじゃないかなって、アズサは思うよ」

「うん、そうだよね」
『本音』がうずくまって泣いている光景が頭から離れない。

「あっ、じゃあさ」
「なあに?」
「今日、昼もカレーだったから、夜は他のものにしたいな」
わたしだって、別にカレーが食べられないわけではないし、わざわざアズサの食べたい気持ちを無視してまでほかに食べたいものがあるわけでもないのだけど…。
「あっ、そうなの!じゃありょうちゃんが食べたいもの選んでいいよ」
「でも、アズサはカレーじゃなくていいの?」
「いいよ、別に。映画でみんながカレー食べてるのみてアズサもカレー食べたいって言っただけだし」
そう言われて一時停止中の画面を見ると、たしかに家族が笑顔でたべているのはカレーだった。


「みんな意外とテキトーに話してることってけっこうあるよ。だから反対することを恐れなくたって大丈夫」
アズサがわたしを勇気づけるように付け加えた。

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