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数学で「価値観の違い」を証明する 〜【理系の頭のなか】

私は大学で理学部数学科を履修しました。
今現在その専門知識を使っているかというと、残念ながら1%も使っていません。(汗)ですが、数学的思考は私の言動に深く根ざしており、特に意思決定のタイミングで学んだことを応用している、と気づく瞬間があります。

そんな数学的な思考のうち、私が特に面白い「気づき」の領域と思った考え方をピックアップしてご紹介したいと思います。

「価値観の相違」は群論で証明できる

今回お話に登場するのは、群論の中のごくごく一部のわかりやすい喩え、です。

最初に正直にお話すると、私は群論の専門家ではありません。群論について詳しく知りたい方はこちらを参考に、別な文献をご参照ください。また、群論と広く表現していますが、ここでは数論の極々一部だけをわかりやすく表現します。

例えば、「1、2、3、...」という自然数の集まり(集合と呼びます)を定義します。ここに、「+」プラスだけを使うことに決めます。そうすると、1+1を何度繰り返して大きな数字になっても自然数の集合に含まれるため、このルールの中では特に破綻は起きません。「×」掛け算も使えますよね。ふむ、意外と応用が効きますね。

ですが、皆さんは「0」や「-1」といった数をご存知ですよね?
整数という集合です。整数という集合の中では、「+」だけじゃなくて「-」マイナスも定義できます。自然数の中でマイナスを定義すると、0やマイナスの数も認めなくてはなりません。ですが、ひとたび整数という集合を定義してしまえば、また破綻のない美しい完全な世界が広がっています。

この考え方は、人の価値観のあり方に似ています。

「1、2、3、...」という数字の集まりを自らの経験だとしたら、その経験から導き出した「+」や「-」「×」という演算=ルールが、価値観のようなものになります。例えば、私が交通事故に遭った経験があれば、交差点の前では止まろう、というルールを設けていくようなものです。人は経験していないことであまりルールを設けることができません。この経験とルールの集まりがその人の意思決定を司っていると言えます。

では、他の人はどういう意思決定を行っているのでしょうか?

もしかすると、あなたのすぐ近くにいる人は、「0」や「-1」といった、あなたがまだ経験していないことを既に経験しているかもしれません。その人は経験に基づいてルールを設け、あなたとは違うまとまりを持っているかもしれません。まぁ普通は違います。

ここまでの例では、単純な数字だけが登場しました。ですが、数学の世界は案外広いです。「有理数」という小数点のまとまりの中では「÷」割り算のルールも取り入れられます。「無理数」というまとまりでは「√」ルートが使えます。「虚数」というまとまりを定義すると…(かつて習った頭の痛い数学の世界が顔を覗かせてきましたね)

今まであなたは無数の体験をしてきました。その中に当てはまるルールをたくさん作って、「だいたいこれだけあれば大丈夫」という状態になっているでしょう。
でも、そのルールでは対処できない出来事があると、無意識的に「受け入れない」という選択をしているかもしれません。受け入れなければその集まりの中だけでは完全な世界だから。
そして、違った体験をしてきた人はあなたとは違うルールを作り、違う世界観を持っています。自分が自然数の世界に閉じこもっていたら、整数の世界を理解することはできません。仮に自然数がとても美しくて完全でも、整数のように外の世界は確実に存在するのです。

というように、あなたの知らない経験をしている人は、あなたが思いもしないような価値観を持ち、似ているけど少し違う判断基準で動いています。自分より広くて様々なルールを持ち説明ができる世界を持っている人も大勢いるでしょう。

そう考えると、新しいことを経験することや、人の価値観に触れることってすごく楽しく感じませんか?あなたがまだ「自然数」の世界の中に閉じこもっているとしたら、実はちょっと臆病で、もったいないことかもしれません。

数学的な思考が「ネガティブ」だと思われる理由(わけ)

「消去法」という意思決定のアプローチがありますが、この手法は数学の証明の中の「場合分け」に似ています。

数学的思考の持ち主は、たびたびこの消去法を使います。会議の場で…

するとどうなるか。
消去法とは、ご存知「可能性の低い選択肢を消していく」手法です。したがって、実現可能性の低いものについて語ることになります。会議メンバーは、話題を出した数学的思考の持ち主が、可能性の低いものについて是非を問い続けるため、相手も同じ思考ができるタイプでない場合、時折「ネガティブ」だとか「時間の無駄」であると感じます。

逆に、ポジティブ思考を押し出そうとする人は、可能性の高い手法から論じようとします。短い時間の中で答えを出すのであれば優秀な決定方法なのですが、大きな投資など、なるべく完璧を期す選択をしたい場合は、別な案も充分吟味しなくてはなりません。そうした場合においても、数学的思考の持ち主は、可能性の高い最初の案に対し、他の案を多数並べ、それが「別案として相応しくない」=「他のが全て良い案ではなかったので最初の案が最も素晴らしい」という場合分けで証明していこうとします。しかし、この決定プロセスで、別案をカウンターとして当てまくる作業は、初期の案の提案者にとってはたまったものではありません。とにかく、あらゆる視点で最初の案と別案がどう優れているのか、さらにどう劣っているのかを比較しようとするのですから。「自分に食ってかかっているのではないか」と錯覚することもあるでしょう。

こうして数学的思考の持ち主は、賛同者の少ないコミュニティで、しばしば「ネガティブ」だと思われ、煙たがられることがあります。
もし私が「ネガティブ」だなと思う方がいたら、どうぞ遠慮なく突っ込んでください。議論の途中では、必ずしも本心からその考えを推したいわけではないのです。

会議とメンバーの集合論

過去行った会議の中で、全く発言しないメンバーに対し、活発に発言したメンバーが「なぜ会議の場で発言しないのか」と問い詰めてしまったことがありました。当然その場では有益な結論には至らず、部署は険悪なムードに。
しかし翌日、問い詰めたメンバーは度肝を抜かれることになります。会議で議論していた案の理想にとても近い案が、デザインとして出来上がっていたのです。発言しなかったメンバーの手によって。

ここから私は「会議」という場の偏りについて理解しました。

「会議」というのは、まがりなりにも会話によって成立します。事前に課題が明確な説明会のような会議であれば別かもしれませんが、ブレインストーミングのような会であれば、会話のスキルは非常に大きなウェイトを占めます。

会話スキルの高いメンバーのグループと、会話スキルがあまり高くないメンバーのグループがいたとしたら、当然会話スキルの高いメンバーのグループが主導的に会議を進行します。

私たちが、突然土俵に引っ張り出され「力士と戦え」と言われたら、おそらく無理でしょう。まさに土俵が違うのです。

「会議」という意思決定スタイルを選ぶのであれば、メンバーは概ね会話について一定のスキルを持ち合わせているという了解が必要です。もし苦手な人がいるのであれば、その人の得意な表現手法で勝負させてあげた方が多様性も広がり、新しいアイデアも生まれるかもしれません。得てして、会話が苦手な人ほど、デザインや造形の表現力が高い場合もあります。

ついつい、「手法」と「メンバー」、双方の集合を同じものと捉えてしまいがちですが、その「手法」に適さないメンバーからすると、もはややる前から答えが見えている、非常に消極的な場、ということになってしまいます。

あなたがマネージャーで、メンバーを「得手不得手」というたった一つの集合で分けてしまっている場合、実は「場」や「手法」の定義を固定して考えてしまっているのかもしれません。
会議ではなく、チャットやデザインラフ、なんでもいいです。相手の得意な意思表現方法に合わせてあげると広がる世界があるのかもしれませんね。

数学で「価値観の違い」を証明するとすっきりする

他人の価値観が理解できなくても、気持ちや考え方の問題として、単純に「それぞれ違うもの」と論じられてしまうことが多いですよね。
しかし、数学的な説明によって、どう違っていて、どう受け止めると他の人の価値観を受け入れやすいのか、まで考えられ、意外とすんなりと「自分の考えが固かったんだな」ということに気がつくことができたりします。

すると不思議と、どう接すれば、他の人が生き生きするのか、自分が生き生きできるのかも見えてくるような気がします。

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