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パパ、保育参観に行く。

保育園から保育参観のお知らせをもらった時は、えっ?そんなのあるの?とその存在をまったく知らず、何か心のどこかで憧れていた授業参観というものをこんなに早く体験できるのかと思うと、途端にワクワク、というか少し緊張してきた。

年中さんクラスである娘が、一体保育園ではどんな顔をしているのか…考えてみれば娘の外の顔というのを見たことはない。先生からは連絡ノートなどを通して、園での様子を伝えてもらってはいるが、その家とは違う様子に、首を捻ったり、嬉しくなったり、驚いたり…ついにはその見たことのない一面を見れるのかと思うと、やはりワクワク、ドキドキしてくる。

スケジュールとしては、一緒に登園し、その後は園にて朝の会→公園に行って遊び→昼食(給食)をみんなでいただき→昼過ぎに帰宅という流れだ。

参観ではあるが、むしろ保育園の1日体験でもあり、他の子どもたちや先生たちと半日過ごすことを想像すると途端に不安になり、いつの間にか子どものことより、自分のことが心配になったままその日は寝床についた。

次の日、いつもより少し早く起き、服を選ぶ。
動きやすさを重視しながら、汚れても大丈夫なものの中で、だらしなくないような服選びは思いの外難しい。
「◯◯ちゃんのパパ、死ぬほどダサいね」と、こどもたちに思われるのも避けなくてはならないし、娘に恥をかかすわけにはいかない。
結局は汚れが目立たなさそうなネイビーのイージーパンツとグレーのTシャツにキャップというつまらない無難な着こなしを選択し、いざ娘と園に向かう。

娘はというとまったく緊張している様子はなく、むしろ保育園で親と遊べることが楽しみなのだそうだ。
つまり緊張してるのは自分一人で、何なら娘がいないとどうしていいかわからない、逆に付き添われているような体となってしまっていた。
保育参観といってもクラスの親御さん全員が来るわけではなく、ある程度の期間を設けて、1日2家族ほどに分散させて行われる。
それがより一層自意識を高めてしまい、自分は見る側ではなく、見られる側なのだという大いなる勘違いが、こうして園の入口を前にして自身を慄かせる理由となっている。

意を決して娘とクラスに入る。
保育参観は今日が初めてではないし、案外みんな気にすることなく、さらっと対応してくれるかもという淡い期待はやはり実らず、園児全員が、大袈裟でなく全園児が私をまっすぐな瞳で凝視し、それから数人が寄ってきて、あっという間に囲まれてしまった。
「だれ?」
まず、とある男子の一言。しかしこれはジャブに過ぎない。間髪入れずに別の女の子が
「何歳?」
落ち着く間も無く、とてつもないスピードで園児たちのペースに引き摺り込まれてしまった。
「お、おじさんは36歳だよ(にこっ)」
「うちのママは30歳」
「私のパパは45歳でママは40歳」
「おじさんよろしくね」
予想できない会話の流れと言葉の連打にかるく目眩を覚えながらも、あくまでもにこやかに元気よく、笑顔を忘れずに娘のクラスメイトたちと言葉を交わした。1000本ノックのごとく、園児たちの突拍子もない質問を正面で捉え返球し、参観開始5分ですでに肩で息をし始めていた私を、先生がようやく救ってくれた。
「はーいみんな!今日は◯◯ちゃんと◯◯ちゃんのお父さんとお母さんが来てくれています!元気よく挨拶できるかな〜?」
「おはようございます!(園児全員)」
「拍手〜!(先生)」
園児全員が一つとなった声の圧力と大音量の拍手はパワーがものすごく、嬉しくもあるが気恥ずかしい思いもあり、少し顔を赤らめながら帽子を取っておどおどと挨拶を返す。娘は笑っているが、大のおとなが何とも情けない。
「それじゃあみんな公園に行くので準備してくださーい!」
先生がそう言うとどの子も素早く自分の水筒を首から下げ、玄関に移動する。あまりにみんな聞き分けがよく、手慣れているので思わず感心してしまう。自分も園児たちに遅れを取らないよう玄関に移動すると、何やら脇で引率する先生たちがこそっと相談をしている。
「A公園にする?今日はB?」
「Aのつもりだったんですけど、あそこは▲▲保育園や××保育園も近いので…」
「じゃあやっぱりBにしようか、少し離れてるけど意外とこの時間誰もいないもんね」
なるほど、公園といってももちろん独占できるわけはなく、近隣の別の保育園やそのほか一般の方との譲り合いに当然なるわけで、遊ぶ場所の選定もなかなか調整が必要ということか。どのようなルートで行くのか、公園までの保育園との距離感、あらゆる状況から判断して移動先を決める。外出一つするにも入念な確認が先生たちの間で行われているのを目にした。

園の前で整列をし、点呼しながら何度も園児たちの人数をチェックする。その間もぶらぶらせずに、どの子もきちんと並んでいて立派だ。
人懐こい子どもが「一緒に手を繋ごう」とこんなおじさんに声をかけてくれて嬉しくてかわいくてきゅんとしてしまう。
先生たちは園児たちの列の前後に1人ずつ、そして少し先を歩き、車の往来や信号などいち早く確認してくれる先生が1人、全部で3名の先生が引率してくれる。うちは普段4歳と2歳の娘がいるが、2人を連れて近所の公園まで歩くのにもそれなりに手こずり大変だというのに、20人弱の子供たちを連れ立って公園まで移動するというのは並大抵ではないし、仕事とはいえこれを毎日行い、大勢の命を預かっているのだから、まったく頭があがらない。

無事に公園に到着すると1人の先生が園児たちを集めて、公園で遊ぶ上での注意点を説明する。ここでも大人しく真剣に話を聞く園児たち。そして他の先生たちは、公園内を隈無く歩きゴミを拾ってくれている。ガラス片やタバコの吸い殻、子供が気になって触ってしまう危ないものはないか、隅から隅までチェックしてくれる。再び頭が下がる。
先生の話が終わると、園児たちはそれぞれ自分の目的の場所へと駆け出し、あっという間に拡散する。滑り台に駆け込んだり、砂場に飛び込んだり、ブランコは人気だが誰が言うともなく自然と列ができて、順番を守って遊んでいる。先生たちは子供から目を離すことなく、それぞれが自分の持ち場を咄嗟に判断し、素晴らしい連携で、子供を見守るフォーメーションが組まれていく。
娘はというとまるで親がいることを忘れたかのように、友達とブランコで遊んでいたので、自分はどうしようかと逡巡していると、他の子供が「一緒に遊ぼう」と声をかけてくれる。子供に気を遣わせているようで再び情けなくなったが、猛省しつつも園児たちに全力でついて行く。

ダンゴムシを一緒に集めたり、鬼ごっこをしたり、遊具で遊びながら、子どもたちの家族の話や趣味の話を聞かせてもらう。

ダンゴムシは宝石のように丁寧に採取され、その大きさや微妙に違う形を比べては讃えあい、擬人化させては笑い合ったりして、虫との触れ合い方やその観察眼に驚かされた。
鬼ごっこでは僭越ながら私は鬼を務めさせてもらった。悲鳴をあげながら逃げ惑う子どもたちをあえて大人気なく追いかけることが、子どもたちへの最大の敬意だと信じて、全力で捕まえに行く。園児の真剣で、時に悔しさを浮かべながらも楽しそうな表情は、こちらにも活気を与えてくれる。
小学生の兄が2人いると教えてくれた女の子は、兄2人のだらしなさを愚痴のように教えてくれたし、ある子は小学校にあがることへの不安や期待を素直に吐露してくれて、自分も過去の経験や思い出を踏まえ、園児たちの話を親身になって聞かせてもらう。

公園にあるものすべてが、余すところなく観察や興味の対象になり、子どもたちの都合のいいように豪奢に書き換えられていく様を目の当たりにできたのは、大いに感動し、学ばせていただくいい機会となった。

園に帰ると娘たちと同じテーブルにつかせてもらい給食をいただいた。家庭では出せない給食の味に懐かしさを覚えながら、普段決して大食いではない娘が何度もおかわりをする様子を見させてもらった。まだ昼だというのに既にくたくたで、普段仕事をしている時よりもエネルギーを消費しているのがわかった。
娘も満足そうで、大いに楽しかったと感想を伝えてくれた。

始まる前はただ眺めているだけのいわゆる授業参観をイメージしていたが、終わってみるとまるでそれとは違う、濃密な職場体験という感じだった。
先生方の素晴らしい連携や目にすることのなかった細かいケアが垣間見れ、子どもたちの眼差しは普段気づくことのできなかった様々な景色を教えてくれて、半日ではあったがとても充実した貴重な時間だった。

改めてこうした機会を与えてくださった保育園には感謝を申し上げ、おじさんに付き合ってくれた子どもたち一人一人にもありがとうと伝えたい、そんな素敵な保育参観となったのだった。

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