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ドラゴンボールと私-1986年生まれの場合-

はじめてドラゴンボールに触れたのは保育園の頃。なぜか新潟県長岡市の古本屋で、29巻と30巻のコミックスを父親に買ってもらったのが最初だった。
アニメは既にスタートしていたが、特に見ていたわけでもなく、父が勧めてきたのかどうだったか覚えてないが、ドラゴンボールという名前だけは知っていて、何にせよ大きな理由もなくその漫画を手にしたのだった。
祖母の家に帰りさっそく読んでみると、5〜6歳だった少年に取って最も印象的だったカットは、人造人間20号(ドクターゲロ)の突きにより、ヤムチャが腹部を貫かれているという衝撃的なシーンにあった。
それまでコロコロコミックやボンボンしか読んでいなかった園児にとって、あまりにステップアップしすぎた描写であった。
この得体の知れない人造人間たちが醸し出す不気味さや暴力性、残虐性は、間違いなく格闘マンガへ傾倒するきっかけとなり、はじめて漫画から放たれる恐怖に、フィクションを超えた緊張感と面白さを感じ、以降この物語にのめり込んでいくこととなる。

小学校に上がると、すぐさまこの漫画における影響力の凄さを思い知ることになる。
まず同級生の男の子に、一人称が「オラ」のやつが当たり前のようにいた。当時はクレヨンしんちゃんのアニメがスタートしたばかりだったので、「オラ」のカリスマが奇しくも2人存在していたわけだが、大袈裟でなく学年の3〜4割の男子が「オラ」であった。
さらには挨拶が「おす!」と真顔で交わされる下駄箱の風景もあったり、ケンカをして負けそうになると、拳を握り、腰のあたりで構え、「んんんん…」と唸りながら、「気を溜める」やつまでいた。

当時の小学1年生とドラゴンボールを繋ぐ媒体は、基本的にはアニメがほとんどだった。
その頃のアニメは、例えば1年生になりたての4月でいうと、セルゲーム真っ只中、悟空がセルにまさかの降参をして、かの名ゼリフ、「おめえの出番だぞ 悟飯!」を高らかに宣言するあたりであった。
男子たちは毎週水曜日19:00の8チャンネルを楽しみにして、木曜日は一日中ドラゴンボールの話でもちきりになるといったルーティンを繰り返していた。
(ちなみにこの頃、ドラゴンボールの後、19:30からはボキャブラ天国だった)
あくまで私の地元での話だが、自分のようにアニメと並行してコミックスを買って読んでいる者は、それほど多くはなかった。セルゲームのあたりでは、途中からアニメがコミック(1993年4月では33巻が最新)の内容を追い抜くこととなり、これまで内容を先取りしていたはずのマンガ派たちも、やはりアニメを頼ることとなり、セルゲームの行末を見守っていた。
そんな最中、少し上の兄貴を持つ同級生に、「悟空は死ぬよ」と言い始める者が現れた。
こちらはまだアニメでセルジュニアに苦しめられている状況、16号が無惨に殺され、悟飯がブチギレてスーパーサイヤ人2になる前であった。何を言ってるんだこいつはという空気が流れる中、この兄貴がいる同級生こそ、新たな勢力、週刊少年ジャンプ派閥であった。アニメ派はもちろん、コミック派たちにとっても、週刊誌で連載をしているという状況というか、仕組みをまるでわかっておらず、ジャンプの存在自体もよくわかっていないのが当時の小学一年生であった。ドラゴンボールの最先端に立つジャンプ派の登場は、学年中に衝撃を与え、瞬く間にその存在を広めていった。
ジャンプでは悟天やトランクス、ビーデルなど、新たなキャラクターの虜になり、アニメでセルゲームのクライマックスを見つめ、コミックで復習する、といった三段階で物語を保管する流れが、夏前に早くも完成していった。
このようにして、ドラゴンボールは小学生に上がると同時に、ジャンプという新たな扉を開いてくれた。この後、映画、カードダス、ゲームと、さらに世界は広がっていくのだが、私の世代はドラゴンボールを通してメディアミックスを無意識に学んでいったのだった。

つづく…(多分、気がむけば…)

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