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【短編小説】ガラスと夏の回想

「今、なんか音したよな」
 7月の蒸した夜。午前2時に普段は使わないキッチンから小さくガラスがぶつかるような音が聞こえた。
 昨年、ひとり暮しを始めたものの、料理の意欲は早々に消え、最近はもっぱら外食かコンビニで買ってきた弁当ばかり食べているものだから、キッチンにはまともな調理器具はおろか、食糧という食糧もない。
 そんな場所から置いてあるはずもないガラスのような音が聞こえたのだ。

 人前では強がっていても実際は気弱な俺は、友人に勧められたフリーのホラーゲームをやっていた最中ということもあり(感想を聞かせろと言われた)、その得体の知れない音が怖くてしょうがなかった。オカルトを信じているとは言いたくないが、完全に否定しているといえば嘘になる。
 確認するなら早い方が良いことはわかっているが、10分間は動けなかった。

 今までキッチンからの音の後、静まり返っていたところに、救急車が外を右から左へ通りすぎる音が聞こえ、現実に引き戻された感じがした。
 意を決して、右手に机に置いてあったハサミを一応の武器として持ち、キッチンへ向かった…。

 そこで見たのは、いつもと変わらないコンロと冷蔵庫、そこに磁石で留めてある時計つきのタイマー、そしてぽつんと置いてあるラムネのビンであった。中身は入っていない。聞こえた音から察するに、中のビー玉がビンに当たって音が鳴ったようである。
 ただ、不思議なのは自分はラムネを飲んでいないということ、中のビー玉がビンに当たるほどの揺れや衝撃があったとは思えないことである。もちろん、家に鍵はかけてあったし、今もかかっているので周りに誰かいるわけでもない。
「なんだこれ…?」

 俺は持っていたハサミを左手に持ち変えて、右手でその空きビンを手に取った。気のせいかもしれないが、一瞬体が浮くような、ふわっとした感覚があった。言い知れぬ懐かしい感じもするが、ラムネに対してそこまでの思い入れもない。ラムネが好きだと言っていた友人もいることにはいたが、別に彼らは死んでしまった訳でもないし、会えない距離にいるわけでもない。

 そんなことを考えていると、また救急車が今度は左から右へ通過していった。恐らく先程のが帰ってきているのだろう。
「ちょっと早い気もするけどなぁ」
 そんなことを口に出す。
 まじまじとラムネのビンを眺めてみても、変わったところは見当たらない。ビンを持ったまま、キッチンを見渡しても、突然ラムネのビンが現れたこと以外は何ら変わりのない風景が広がっている。

 そうこうしている間に10分ぐらいが経った。ふと、冷蔵庫に留めてある時計を見ると丁度時間が変わる時だった。2時2分から2時1分へ。
「は?」
 何が起こったのか理解できず、気の抜けた声を出してしまう。音が聞こえたのが2時であったから、今が2時1分であることがまずおかしいのだが、それは最悪どちらかの時計がずれていたということで話がつく。ただ、戻るのは説明できない。
「た、たぶん見間違いだよな…。」
 次に時計の時間が変わる時、ちゃんと進めばさっきのはただの見間違いだったのだ。そう思って、見逃さないように、そして、見間違いであったことを願って時計に集中する。まもなく1分。

 表示が切り替わった。2時1分から2時0分へ。
「うわぁ!!」
 間違いなく、時計は逆に進んでいる。その事をしっかりと確認してしまった。目の前で起こった怪奇に耐えられず大声を上げてその場から離れようとした。
 その時、ずっと右手に持っていたラムネのビンを手放してしまった。まるで元あった場所に置き直すように。そこで意識は途絶えた。


カラン

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