見出し画像

【#3】プレス&カウンターで生きていく

逆襲

我が軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能。状況は最高、これより反撃する。

フェルディナン・フォッシュ

『坂の上の雲』といえば、司馬遼太郎の日露戦争を題材とした歴史小説だ。その3人の主人公の中のひとりが、当時世界最強と言われたロシアのコサック騎兵を満州の地で打ち破った、日本陸軍騎兵の父で秋山好古である。秋山は元軍人としては異例なことに、中学校などの学校長などを歴任し近代日本の教育の基礎を形作ったひとりでもある。

司馬遼太郎による創作か史実であるかは不明だが、作中で秋山の陸軍騎兵学校の教官時代の風変りなエピソードがある。一見すると奇行のようでもあるが、教育というものごとの機微を良く捉えた逸話である。『坂の上の雲』を直接確認していないが、概ね次のような話である。

ある日、時代の陸軍を担うエリートが集う騎兵学校で、秋山は講義中におもむろに学生たちにこう問いかけた。騎兵とは何ぞや、と。学生たちは本質に迫る問いかけに困惑した。一体どのように回答すればいいのだろうかと。学生たちの様子を一瞥した後、秋山は教壇を下り窓際に歩み寄りそのまま右腕を振りぬき窓ガラスを粉砕した。砕けたガラスが突き刺さった拳を掲げ、視線が一点に集まったのを見計らってから、こう言い放った。



「騎兵とはこれぞ」



コブシ、血まみれ。



このあまりにも過激すぎるデモンストレーションを通して、秋山が伝えようとした騎兵の本質とは一体何であろうか。それは騎兵の最大の特徴であり利点である、機動力とその迅速性を生かした突破力に他ならない。そして同時に、防御力という面で他の兵科に比べて脆弱であるという点である。

機動攻撃は速さをもって敵の判断する時間を奪い去り、敵の防御体制構築が完成される前に有無を云わせずに撃滅する戦術である。騎兵とはまさに機動攻撃のための兵科であり、その強さの本質は速度に依拠している。疾風のごとき迅速性の代償として、敵の攻撃を前に無防備な姿で曝露されるのである。

自分の分野に引き寄せて考えるならば、フットボールにおけるプレス&カウンターも同様のことが言える。ボールを持っている相手に対して猛烈なプレッシャーを連続してかけることで、相手が判断する時間を強奪し、そのままボールごと狩り込む。相手守備組織の形成より早く危険なエリアにボールと人を送り込み、相手に抵抗される前にゴールを制圧してしまう。プレス&カウンターとはそのような戦術である。バスケットボールでいうところのラン&ガンスタイルに近い。

騎兵部隊と同様に、プレス&カウンターは自らの陣地を晒すことで得点を伺うリスクを含む戦術である。速度を生かした攻撃は失敗した際に、その速度が倍加して、「カウンター返し」として自らに突き刺さるのだ。

もう少しだけ回り道をする。というのも、プレス&カウンターを小学生相手に教えたときの話をしようと思う。その日はゲーム形式でプレス&カウンターのトレーニングを行っていた。大きなピッチに各チーム3人ずつだけ選手を入れて勝負するトレーニングだ。

トレーニングをはじめてからしばらくすると、案の定、力量の差が徐々に出て片方のチームが一方的に押し込まれ始める。そこで、私はいったんトレーニングを止めて、負けている方の選手を集めて指示を出す。

「カウンターアタックはスピードが何よりも重要だから、ボールを奪ってから10秒以内に攻め切ろう」

具体的な数値を提示することで強制的にインテンシティを上げて相手を制圧する、近年ドイツを中心に結果を残しつつあるレッドブル・グループ式のアプローチだ。ここ数年の欧州トップレベルのクラブの監督は、レッドブル・グループの開祖ラルフ・ラングニックの薫陶を受けた人物が増えている。

抽象的な指導よりも具体性を持って伝える方が選手に伝わるに違いないという、欧州のトレンドを浅くなぞっただけの私の目論見はもろく崩れ去った。悠久の時を生きる小学生には10秒も20秒も同じで、数値を提示したところで小学生の感性には響くどころかかすりもしなかった。グラウンドにバスケットボールのようなカウントダウンタイマーもなかったのでピンと来なかったのだろう。

(ましてやラングニック大先生ですら、トップクラスの選手が揃う某クラブで苦労していらっしゃるので、小学生に伝わらないというのは当たり前と言えば当たり前である。おっと、話が横道に逸れました。)

トレーニングが再開してしばらくしても、そのチームは劣勢におかれたままで勝利への糸口を見いだせずにいる。このままでは選手たちは自信を挫かれたままグラウンドを後にすることになってしまう。練習で自信を打ち砕いたまま選手を家には決して帰さない。これは私の指導者としてのポリシーだ。だが、ポリシーがあっても内容が伴わなければ机上の空論でしかない。信念だけで良い指導ができるわけではない。

私は慌てて再びトレーニングにフリーズをかける。選手たちのモチベーションが決壊点に達する前に手を打たなくてはいけない。選手たちはコーチが何か話すというのでいそいそと集まってくる。今度は何をしゃべりだすのか、選手たちは私の目を覗き込んでくる。

もっと上のカテゴリー、例えば高校生や大学生なら、具体的な秒数はリアリティを持って受け止められただろうが、今はそうはいかない。何か方法を考えねばならない。そもそも、人というものは「説得」したところで動いてくれない。論理的であれこじつけであれ「納得」することができれば伝え方はなんであれ動き出してくれる。もう一度10秒以内にフィニッシュへつなげる重要性を説いてもそれは説得でしかない。ならば、彼らが納得できる別の伝え方を考えるしかない。

そのとき、日韓W杯のドキュメント映像を見ていたことを思い出した。当時の日本代表監督フィリップ・トルシエの通訳だったフローラン・ダバディが、カウンターを逆襲と訳していたことを思い出した。

ほんの刹那に頭を過ぎった記憶だったが、あまり選手たちを待たせると選手たちの集中力が途切れてしまう。これでいこう。コーチングは「短く、シンプルに、要点だけ」が原則だ。

「ボールを奪ったら、全員ですぐに逆襲しよう」

トレーニングを再開させると、負けていたチームは見違えるように躍動し始める。相手のチームの方が能力的に上回っているという状況は何ひとつ変わっていない。だけれど、確実に相手ゴールを脅かす回数は比べるまでもなく増えていく。

必死に体を張ってなんとかボールを奪い取る。カウンターが起動する。ロケットえんぴつのように何かに押し出されるようにして、選手たちはそれぞれに「逆襲—、逆襲—」と叫びながら後方から勢いよく飛び出していく。たとえ小学生であっても、攻撃参加すれば後方のスペースにリスクを抱えることを十分に承知している。失敗したらピンチに陥る——、己の中に潜む恐怖心を勇気でねじ伏せて走っていく。

それから十数分、声変わり前の甲高い「逆襲」の声がグラウンドにこだまし続けた。結局その日は、最初に負けていたチームが勝った。選手たちがいつになく満足げな表情で帰っていくのを見送った。彼らの中の認識の窓ガラスが砕け散る音が聞こえた。そんな日だった。

秋山好古に話を戻すと、彼が窓ガラスを粉砕したこと(史実であればだが)には、教育上における人を「納得」させるための大きな効果があったように思える。私が考える良い指導の条件である、「言語化する、視覚化する、体験させる」の3つを満たしているからである。

騎兵とは何か、という本質を定義する言語化に始まり、その定義を窓ガラスを粉砕する行為で視覚的に説明し、血塗れのコブシは間接的にその防御力の脆弱さを体験させた。指導というのは最低でも「言語化、視覚化、体験化」のうち2つを保証するべきであるが、秋山は3つとも備えた上でそれをシンプルかつ短時間で説明して見せたのである。

私の指導もまた偉大な陸軍の英雄と同じであるというのはおこがましく思える。教育者としての能力も人物としての努力も彼我の間には天地ほどの開きがある。だが、少なくともスキーム関しては共通している。

カウンターという事象を「逆襲」と呼ぶことで認知を容易にした。視覚化に関して言えば、彼らは最初から劣勢であったからどこへ逆襲すべきかは一目瞭然であった。そして彼らは自らの「逆襲」によって得点を奪えるということを体験として実感することができた。私の指導には偶然の産物の要素も多分にあるが、シンプルで短時間で選手に伝えることができたことは間違いない。

逆襲、という言葉が好きになった。

汝我に艱難辛苦を与えたまえ

どん底だから あがるだけ

『どん底』/ザ・クロマニヨンズ

好きなことで生きていく。YouTube全盛時代のスローガンとして持て囃されているが、何も好きなことだけして生きていくということではない。生きていれば当然嫌なこともある。ただ、その嫌なことすらも跳ね返せるぐらい好きなことを見つければいい。

プレス&カウンターが好きだ。だから、私はプレス&カウンターで行きていく。たとえリスクを負ってもプレス&カウンターの本質は逆襲だと思う。勝てないと思われているヤツらのための武器。不利な下馬評を覆してやろうとしているヤツらのために生を受けた戦術。近頃は、誰もが何かに逆襲したいと思っている。親、兄弟、学歴、社会、税金、政府、陰謀論、人間関係、保険会社、ミュウツー。

逆襲に必要なものはさして多くない。唯一必要なのは逆境だ。逆境が人の情熱を焚きつける。困難に打ち勝とうとすることで人生は輝き始める。定期テストが近くなったあたりで必要もないのに部屋の掃除を始める。部屋が一通り綺麗になったところで掃除するものがもうなくなる。残された時間は限られている。いつだってそこからが本番だったように。

ただ、逆襲は一発逆転を目指しているわけではない。起死回生を狙ってもてるすべてのリソースを自分の直感の赴くところに賭けるということではない。逆襲とは劣勢すらも利用してしまおうという底抜けたポジティブさのことだ。

だから、逆境というのは理不尽ではない。自らが超えることができるかできないかの瀬戸際のラインに挑むからおもしろいのであって、不可能であると諦めがついてしまう領域には、何の魅力もない。理不尽が人を育てると今まで自分でも言ってきたけど、正確に言うと逆境が人を育てるかもしれない。

最後に最近の話を少ししよう。

留学先の語学コースが始まるので、クラス分けテストを受けた。結果は100点満点中5点。3年間ドイツ語をやってきたのは一体何だったのか。いや、全然勉強してこなかった私が悪いのだが。少なくともこういうときに、あと95点分伸びしろがあるよ、とか言って上手いことアドバイスした気になっているヤツは私よりもバカである。

とは言ってみるものも、こういうことを言っているからそんなアドバイスしてくるれような友達すらそもそもいない。が、やはり私が100点満点の枠組みに収まると思っているのが癪に障る。なぜ測る装置に問題があると思わないのだろうか。常識に疑いを持たないヤツは窓ガラスを粉砕する感性がない。そういうやつに逆襲はできない。

感情が昂って話の大筋が逸れたが、語学コースは一番下のA1.1クラスになった。みんなド初心者しかいない。私だけがすこし喋れる人みたいになっている。全然できないのだけれど。

私のクラスの構成内訳は国籍で見ると、日本、日本、日本、日本、韓国、韓国、中国、台湾、台湾、アメリカ、アメリカ、ベネズエラ。アジア人が多いのは言語構造の違いに由来する部分が大きのかなと感じる。

日韓の出身者はシャイさ全開でグダグダの発音で単語ぶつ切りで発話する。そして、なぜか謝りまくる。かつて、何度も中学高校の英語の授業で見た風景。

授業を受けていて感動するのは、全然授業を受けていても進歩が見られないような人でも納得できないところは容赦なく質問する。質問の権利を行使しない方がおかしいのだろう。日本人は全然質問しない。私以外。私の方がおかしいのだろう、日本人としては。

台湾人の英語はスーパー流暢だけど、日本人でも聞き取れる程度に遅いし弱音が消えすぎて聞こえないこともなくて話しやすい。対して、アメリカ人と話すと本気のネイティブとはあまりうまく会話が続かない。英語科の教員免許を取得中のはずだが、英語全然できないことを痛感させられる。

ぶっちぎりで最高なのがベネズエラからきたエヴェリン。まず、学生じゃなくて母国で教育学の教授だというのがずば抜けてクール。エヴェリンが多分日本語のこのブログを読めないので書くけど、言ってしまうならただのベネズエラのおばさん。(エヴェリンには内緒にしてね)英語はスペイン語訛り全開でほとんど聞き取れない。ドイツ語も全然できない。でも。自分で何か喋って、自分でめっちゃ爆笑してる。なんならたまにスペイン語で先生に質問してる。

だから、私とブレイクアウトルームでエヴェリンとふたりで共同作業の課題とかしてるとき、お互いに拙い英語で喋りたいだけ喋って、お互い全然聞き取れてないけど、自分の喋ったことに爆笑してる。

全力で逆境を楽しんでるエヴェリンの姿を見て、ベネズエラは逆襲が国民文化なんだろうなと思った。ベネズエラに行ってみたいと強く思った。そしたら、自分の故郷の街をドイツ語で紹介するプレゼンの課題で、エヴェリンがベネズエラは綺麗だけど治安が悪すぎるから来ない方がいいと説明していた。どうやら土地自体が逆境で、だいぶハードに逆襲が国民文化なようだった。

ベネズエラとは何ぞと聞けば、エヴェリンはガラスを鉄拳で粉砕するのだろうか。さすがにそれは偏見が過ぎるか。








よろしければサポートをお願いします。みなさんのサポートで、現地で糊口をしのぎます。