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ひとり旅日記欧州へ13日目:訪ねるべきアウシュビッツにやっと来られた。

2016年1/2クラクフ。

5:30amに起きて朝食。昨日のうちに配られた朝食セット。パンが酸っぱめ。無いよりマシって感じのもの。7:15にクラクフ駅到着。インフォメーションに駆け込み、アウシュビッツ行きのバスチケット売場を教えてもらった。両替所の場所も聞いたが、営業は9時からとのことで仕方ない。戻ってきてからにするか。

バスは8:05発のハズが8:15。しかもバスではなく、バン…窓側の席を避けた。外の冷気に近いのは勘弁。バンだから、すぐに満席。次のバスにしろと言われてた3人組とか。出発したが、車内は寒いまんま。夜行列車は揺れて眠り浅かったから、バスで寝かせてもらった。

9:45頃にとうとうアウシュビッツに到着。中学生の時に地元に巡回でやって来たアウシュビッツ展を見学してから20年以上経ってるが、あの頃に見たアウシュビッツの現実はずっと頭を離れたことはない。それに、いつか絶対この目でその土地を訪ねて見なければならないと思い続けてきた。あと少しで思い続けてきたことが現実になると思うとドキドキした。

なのに、ガイドをお願いしてた中谷さんとの待ち合わせの場所のメールを写メるのを忘れてるとか、終わってる…

日本人夫妻を見るや、「中谷さんのツアーですか?」と声をかけたら、「違います。個人です。」とのこと。自分も個人だけど…やっべ。中谷さーん。どこですかぁ~?たぶん入り口付近だろうと進んだら、中谷さんとカチ会えた!挨拶をして、朝着いて両替できてないと伝えると、ここでリュックを預けるのとトイレと帰りのバスで10ユーロの両替で足りるとのことで、入口で両替。中谷さんへのお支払いはユーロで大丈夫とのことだった。

それにしても、朝早くから色んな国からやってきた観光客がたくさんいた。新年明けて早々、この寒い中でこの地を訪れた同志たちがいる。それだけでも嬉しかった。

中谷さんのツアー参加日本人は20人ほど。ヨーロッパに留学してる学生、個人、友人同士、ご夫婦で参加のみなさん。入場の為のセキュリティチェックに時間がかかった。待ってる間に中谷さんが「今日は-15℃。いつもは-30℃だから、暖冬な方です」だって。北極圏でも経験できなかった人生初のマイナスの世界。

動かずに列に並んでると、地面からの冷気で靴下2枚重ねの2枚目はかなり厚手のものを履いてても、寒さでつま先がおかしくなりそうだった。実際に収容されてた方々は木靴に素足でストライプの薄手の囚人服だったんでしょ?去年行ったダッハウの説明で、冬も早朝の朝礼があったって読んだ。この寒さが暖冬っていっても、自分はたくさん着込んでてこんなに寒い。アウシュビッツに行くなら一番厳しい季節に行こうと思ってた。まだ内部に入れてないにもかかわらず、すでに色々考えさせられた。並んでる間に、水蒸気がキラキラしてた。これをダイヤモンドダストと言うのだろうか。寒い中でも存在する美しさ。きっと、アンネもこういうちょっとした自然美を愛でていたのではないかな…と思ったりもした。

セキュリティチェックに至るまでの30分間、吹きっさらしだった。自分だったら、これよりも寒い気温の中で生きようと思えるか?サッサと人生を諦めてしまうのではないか?と思った。この季節を経て生還した方々の精神力の強さは本当に強靭だと思った。

自分と同じくひとり参加の女性に話し掛けて、一緒に回ることにした。

門をくぐると、整然と並んだ建物。中谷さんが、「ポプラの木々が緑に色づく頃はここは大学のキャンパスか?と思うほどなんですよ」と仰ってた。「アウシュビッツができた頃の写真と現在を見ると、ポプラが時を越えて成長してるんです」とも仰ってた。ポプラはここで何が起きてたかを目撃してきたってことか。

「同じ過ちを犯す、過去を忘れ去っていく者を強く非難する」との文言のパネル。戦後生まれはやっぱりこの事実から学ばないとならないと思う。

ツアーが始まる前に注意点があった。基本的に写真OKだが、人毛の展示の所だけは遺族の方に配慮して撮らないで下さいとの事だった。

本当はひとりで感じるままにアウシュビッツを巡ろうかと思ってたけど、なぜかガイドブックに載ってた中谷さんに強く惹かれて、日本を発つギリギリでツアーに参加したい旨をメールして今日を迎えた。

中谷さんで良かった。アウシュビッツに関わった人でないから、中立的にガイドして下さり、自分にはなかった見解を持てたから、本当に有難かった。

特に、今日の難民問題(ユダヤ人は国を持てずにさまよい続けた歴史があり、ある意味難民と同じ)、過半数でない30%の勢力が世間を動かしてしまい、残り70%の反対者がいたとしても30%が強いとどうしてもその流れに飲まれてしまった歴史。アウシュビッツという悲惨な事がどうして起きてしまったのかを、今現在起きてる世界情勢の不安や難民問題に絡めて話して下さったのはとても興味深く、また、考えさせられた。差別や偏見からいじめが起きていること等々…平和って、そんなに作るのが難しいのだろうか?広い心で、自分と違う価値観を認める事はそんなに難しい事なのだろうか?隣人を気にしたり、敵意を持つことにイミはあるのか?そういう事してる時間をもっと自分の為に有意義に使う事はできないのか?云々…色々と考えが巡ってしまって仕方なかった。

ガス室の後に火葬された遺灰。

ガス室で使われたチクロンB。

地元の巡回で見て一番心理的に堪えたヒトの脂肪で作った石鹸の展示はなかった。もしかしたら、自分と同じく衝撃の度合いがキツイからなのかね…

大量のメガネはフレームのみ。レンズはなかった。 

大量の義足。

大量のカバン。戻る時に分からなくならないように記名の指示で書いてある名前。

大量の小さい女の子用の衣服と人形。

靴、靴、靴、靴…

囚人服の展示。

75~80%のユダヤ人が収容される間もなく、即ガス室送りだった話は初めて聞いた。コルベ神父が餓死刑の男性の身代わりになって刑を受けた。その神父さんがいた場所の見学。中谷さんが遠藤周作の『女の一生サチコの場合』の中にコルベ神父の事が書かれてると教えて下さったり、今オススメの映画として『私はマララ』と『杉原千畝』を述べてた。『私はマララ』は観たから帰国したら杉原千畝を見ようと思う。一緒に回ってた女性が千畝さんの奥さんにお会いした事があると言ってた。

吹きっさらしで、風を受けると体感は-15℃以上に寒かった。

収容されてたのは、ユダヤ人だけでなく、ナチスに抵抗したとの事でポーランド人も連行された。ガス室送りになってしまった彼らはポーランドの為に戦ったという事で英雄と見なされてる話。ジプシー、同性愛者、身体障害者を排除しようとしたナチス。金髪で青い目でゲルマン語を話すのが優秀な民族と説いたヒトラー。で、アンタ?髪色金髪じゃないですよね⁇

旅行前に読んだ新聞記事。ポーランド人なのに金髪で青い目だったから拉致されてドイツ人夫婦の元に養子として入りドイツ人として育てられた人の事を思い出した。旅行直前で観たNHKの『映像の20世紀』も観ておいて良かった。大衆が何故ヒトラーを求めたのかなどが分かり易かった。それと、『ヒトラー暗殺16分の誤算』も観ておいて良かったし、ダッハウ強制収容所も去年行っておいて良かった。

解放前のガス室の模型。

大量の人毛の展示室に着いた。女性の人毛は70年以上の時を経て色が変色してきてるという。可愛らしいリボンで結んである三つ編みが根元から切断されてるのが無造作に積まれてた。恐らく日本でなくとも、「髪は女の命」ってのはあの頃世界共通の認識だったのではないかと思う。それを根元からの切断は、リボンからしてまだ未成年だろうと思うから、かなりの精神的ダメージだったと思う。生きてればまた伸びるって希望を持つにはなかなか過酷な状況。

火葬場。同胞が同胞の遺体を焼いていたという。

この人毛で毛布を作ったってのは巡回展示で知ってたけど、人毛から作った布でスーツを仕立ててたのは今日初めて知った。実際に流通して着てた人が居るってのが信じ難いが、購入者は素材の事など知る由もないなかったんだろうな。

解放前に証拠隠滅の為にナチスが爆破したガス室。

第2部はビルケナウ。見学可能なのはごく一部。アンネはここの女子収容所に居たとの事。最初は木造だったのが、レンガ作りに変わって、解放後は木造の方は燃料の蒔として使用された為、レンガの暖炉だけが残って、規則正しく並んでるとの事。中谷さん曰く、レンガの方も見学できてたのが、この土地は元々湿地帯だから地盤が緩んで建物が傾いたりしてきてるととの事。確かに、外側から支え棒で保存されてる建物があった。

家畜用の貨物列車に乗せられてビルケナウまで運ばれた人々。

レンガ作りの一棟が見学可能だった。そこには木の3段ベッドが並んでた。-30℃で暖炉から遠い所で寝なければならないとなると、生き長らえるのは本当に厳しかったと思う。3段でも、上・中は地面に近い下段に比べたらマシかな…程度だよね。ベッドの場所は毎日決まってたのかな?今日よりもっともっと寒くて、縞の囚人服での生活は、想像を絶した。

壁の絵。収容されてた小さい子供の為に描いたという。

穴が開いてるだけのトイレ。横一列に何個も穴がある。

今日は中谷さんにガイドをお願いして本当に良かった。昨今の難民問題とユダヤ人を絡めた物の見方、少数派が強いと正しい多数派はそちらに引っ張られてしまう、平和をつくるのはそんなに難しいことなのかetc…色々と考えさせられた時間だった。

ツアーが終わり、ビルケナウからアウシュビッツに戻るバスの中で中谷さんにガイド料10ユーロ支払おうとしたら、「学生ですよね?」と言われた…。ハイ。とは言えず大人料金支払った(苦笑)。アウシュビッツに戻って、中谷さんと一緒に回った女性と自分の3人で写真撮った。中谷さんが出されてる本にサインしてもらってる方々や、贈り物してる方々もいた。

クラクフに戻るのも、女性と一緒のバスに乗った。色んな旅の話を教えてくれて、エベレスト登った話には参った。「少しずつ身体を慣らして行けば行けるよ~」って、自分の富士山5合目の心臓の状況を考えると多分無理だな。

クラクフ駅に着いて、今更ながら自己紹介。まきさん。ツアーは休憩も昼もなかったから激しい空腹の旨伝えると、ご飯一緒しましょう。となった。まずは駅に預けた自分の荷物を取り出し、一度宿にチェックイン。

これまでの旅の中で一番広い部屋。1K?立派な台所が付いてた。一泊はもったいないとこだな。

まきさんと旧市街へ。中心部のど真ん中は高いから少しずつ脇道それた所にしてみようということになった。1ズウォティ=30円と教えてもらった。入店前メニュー確認したら、日本で気軽に入るようなパスタ屋と同じくらいだったから、そこにした。

冬限定メニューのデザートのプリン+ラベンダーソースに釘付けになった。聞いてみたら、17時の時点で売り切れだって。残念すぎる!ツアーで冷えた身体の為に、鱈のスープ、エビとほうれん草のパスタ、デザートはリコッタチーズケーキ。

まきさんと本当に色々語った。平和について。日本の今後について。どんな物事の中にも笑いを見つける事。話してる中で、まきさんが定時制高校の国語の先生と判明。ブタペストでお世話になったよしさんの「旅は色んなジャンルの人と話せる」がフラッシュバックしたね…。

ヒガミとネタミで世の中おかしくなる。自分の為に時間を使わず、他人への攻撃に時間を使うなんてアホらしい。自分の成長の為に時間を使わんと。人生は短い。

自分のこの旅の、今の所のヤバかった話としてクレジットカード事件を披露したら、まきさんにご馳走になってしまう事になってしまった。自分のイケテナイ旅物語で、今は無事に旅できてるって言ったのに、結局ゴチになってしまった。まきさん、どうもありがとうございます。ごちそうさまです。

広場のマーケットにも一緒に行ってみた。まきさんがソーセージ食べたいとのことで、15ズウォティのところ、10ズウォティしか手持ちないとのことで、自分が値切ってみた。屋台のお姉さんが「ナイショよ!」とデッカイソーセージを負けてくれた。

今回の旅ってなんだろう?こんなに日本人と旅先で長い時間過ごしたことないのに。まきさんが別れ際、沖縄の方言で、「あなたは持ってる」みたいなことを言ってくれた。確かに。変な出会いはしてないから、そこのところは運があると思う。たくさんたくさんまきさんと話した。本当に素敵な一期一会だった。別れた後、明日のヴェリチカ岩塩坑へのバスの時間を確認してから宿に戻った。

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