『フォーリング・ダウン』狂った社会なんかぶち壊せ!
ジョエル・シューマカーが亡くなった。
彼は、ウディ・アレンの『スリーパー』(1973)や『インテリア』(1978)などの衣装デザイナーとして、映画の世界で活躍した。
その後は、ロスの洗車場を捉えたゆる〜いコメディ『カー・ウォッシュ』(1976)で脚本を、それをタクシー会社にすげ替えた『D.C.キャブ』(1983)では脚本と監督を兼ねたりと、
いわゆる職人監督的な立場で、青春映画やサスペンス、ラブストーリーに戦争映画などそのジャンルは多岐に渡る。
だからか、彼の作品はイマイチ評価されにくいし、そのフットワークの軽さから、時代が移り変わるなかで忘れ去られてしまった映画も多い。
でも僕は、『ロストボーイ』(1987)だって、『バットマン フォーエヴァー』(1995)だって、『フローレス』(1999)だって、その面白さを忘れやしない。
そして、中でも僕が大好きな映画が『フォーリング・ダウン』(1993)だ。
くそ暑い夏の日、ハイウェイは道路工事で大渋滞、車は全く進まない。おまけにエアコンも窓も壊れ、小蝿が車内を飛び回る。
「あーイライラする、俺は家に帰りたいだけなのに」
D-フェンス(マイケル・ダグラス)と名乗る中年の男は、ハイウェイに車を乗り捨て、家まで歩いて帰ることにする。
『フォーリング・ダウン』はそんなオープニングから始まる。
うだるような暑さの中では、誰もが気が狂いそうになり、全てを棄てて投げ出したい気持ちになる。
Dog day(犬の日)と言われるように、あまりにも暑くて犬がハァハァと口を開け、舌を垂らすような日は犯罪も多くなるという。
それは『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)でも、『炎のいけにえ』(1974)でも、そして『狼たちの午後』(1976 原題はdog day afternoon)でも描かれていた。
しかし、ここまで狂える主人公に共感でき、深く同調してしまう映画もないだろう。
それほど本作は、むさ苦しい毎日を逆に暑さで吹き飛ばすほどのエネルギーに満ちた作品なのである。
Dーフェンスは、凶悪なわらしべ長者のように、立ち寄る先で問題を起こし、より強力な武器を手に入れ、暴走を続ける。
コンビニでは、勘定で揉め、バットで店内を破壊する。そして、空き地でコーラを啜る彼にチンピラが絡むと、そのバットで彼らをボコボコにし、ナイフを奪う。
制御が効かなくなった男は、世の中に対しての不満を爆発させ、行く先々で破壊し尽くす。
主人公は本名すら明かさない。D-フェンスというのは車のプレートにつけられた文字のことである。
彼は、軍需産業の工場に勤めていたらしいが、先日解雇されていたことがわかる。
なんとも皮肉な話だ。デフェンス(防衛)と名乗る彼は国を守るどころか、その国や社会に不満を募らせ内部から破壊しようとしたのだから。
そして、妻とは別れており、幼い娘はその妻に引き取られ全く会えないことも浮かんでくる。
この日が訪れるまでに、すでにこうした傷が主人公の心を蝕んでいたのだろう。うだるような暑さが彼の狂気のトリガーを引かせただけであって、彼はすでに暴走寸前に壊れていたのだ。
これは、彼だけの話ではない。毎日あくせくと働いても報われず、時間に縛れ、ミスもできず、いつも張り詰めた状態でいる。
切迫した現代社会は、常に爆発寸前だ。だから、暑さで差別や暴力が、そのストレスを膿みのように放出させる術として出てきてしまうのだ。
だからこそ我々は『フォーリング・ダウン』を見てスッキリし、日々のストレスをリセットするべきだ。D-フェンスはおかしな世の中に対抗する、我々の代弁者でもあるのだから。
ところで、上の画像は、本作のブルーレイの表紙でも使われている。主人公がかける割れた眼鏡は、誠実さや知性が主人公の中で完全に壊れ、物にヒビが入るほど、暴力的で、野生のようになったことを暗示している。
このショットは、明らかにサム・ペキンパーの『わらの犬』(1971)のオマージュだ。
この映画について詳しくはいずれ取り上げようと思うが、『わらの犬』は、都会的なインテリでひ弱な男が、田舎の住民の粗野で暴力的な行為に晒され、動物的な本能を呼び起こし、武装して彼らを皆殺しにするという暴力についての映画であった。
『フォーリング・ダウン』も真面目な男が、不条理な社会への苛立ちを、暴力に目覚めることで清算しようとする話である。D-フェンスも本能的に暴れ、暴力を発露させケダモノとなったのだ。
そして、やはり割れた眼鏡は、『わらの犬』のポスターでも強調されて使われていた。
目元で粉々に割れたガラスは暴力を匂わせるが、脆い主人公の哀しみの感情のようにも見える。反射してキラキラと散る涙のように。
そして、『フォーリング・ダウン』も同様に、哀愁を感じる映画であった。メガネの傷は心の傷だ。
彼は全てに裏切られて、暴れるしかなかったのかもしれない。そしてその暴走を止めて、クソみたいな人生に終止符を打ってくれる人を求めていた。
D-フェンスを追い詰めたのは、定年を迎える刑事プレンダガスト(ロバート・デュバル)であった。彼は人生の苦さ、無常さを知り尽くしていた。だからこそD-フェンの暴走を食い止めるのに相応しかった。彼しか主人公の痛みや辛さを理解できなかったからだ。
最後のヨットハーパーのシーンは、さっきまでの熱とは反対に悲秋漂う叙情的な場面だ。
やりきれない社会に対しての憤りは、闇に堕ちるように封殺される。彼は平穏な家庭を、人生を望んでいたはずだったのに。どこかでそれが狂ってしまった。
圧倒的なやるせなさだ。狂っていたのは彼か?世の中か?
『フォーリング・ダウン』はアイロニー溢れ、爆発的な熱を帯び、社会の病を粉々にする素晴らしい映画だ。
そんな、最低な世界で最高に楽しめる映画を遺してくれたシューマカー監督には、深い感謝しかない。
そして、彼はバットマンを倒錯的な面白さに塗り替えたりと、ヒップでクールな偉人であったことを記して追悼を終わらせたいと思う。
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