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【短編連載・不純情小説】リバーサイドマルシェ⑤

 むっとした表情で帰り支度を始めた多香美に、俺はそのまま話し続けた。
「失礼なのはわかっている。でも、はじめからそのつもりで君に声をかけたわけじゃないよ。話しているうちに、今の君を抱きたいと思うようになった。これが今の俺の気持ちなんだ。今度またこの店で君に会うことがあったとしても、同じ気持ちになるとは限らない。今夜の君が、明日も同じ君かどうかはわからない。俺もそうさ」
 多香美はひととき目をつむり、ふっと息を吐いて肩を落とした。そして俺に顔を向けた。
「わかったわ。行きましょう」
 タクシーの中で多香美の気が変わるかとも思ったが、そんなそぶりは見られなかった。多香美は何も言わず窓の外の流れる景色を眺めていた。暗い表情ではなかった。
 週末を待ってため込んでいた疲れは、二人とも同じだったようだ。体を重ねたあとの心地よい疲労感が二人を眠りへと誘った。多香美の寝息を聞きながら、俺も落ちていった。

 ベッドの上で目が覚めると、多香美はすでに服を着てソファーに腰掛け、白い靴下を履こうとしていた。窓を見ると、カーテンの隙間から朝の光が漏れている。
「タクシーを呼ぼう」
 体を起こしながら俺が声をかけると、多香美は笑顔を見せた。
「結構よ。近くのバス停にもうすぐ始発がくるはずだから、バスで帰るわ。シャワーを浴びたら?さっぱりするわよ」
 俺がシャワーを浴びている間に多香美は帰ってしまうのだろうと思ったが、多香美は待っていた。ホテルを出て表の通りまで出るとバス停が見えた。その方向へ歩きかけた時、多香美が思いついたように言った。
「ねえ。朝市に行ってみない?リバーサイドマルシェっていうの。あたしコーヒーが飲みたいわ」
「朝市でコーヒーが飲めるのか?」
「ええ。飲めるわ」

 この町は中規模の河川を挟んで都市部と農業地帯に分かれている。農業地帯では特にこの土地ならではの特産物があるわけではなく、一般的な野菜類が多品目生産されていた。安定した気候と水質の良さからか、この地でとれる野菜は品質が良いと評判で、首都圏に出荷されて高い値で取引されていると聞いたことがある。
 数年前から、地産地消による町の活性化や食育
の推進を目的として、都市部の川岸に造成された広場で、週末の早朝に農産物の即売会が催されるようになった。
 リバーサイドマルシェと呼ばれるこの朝市には、都市部で営業しているカフェやパン屋なども出店し、地元産の作物を使った料理なども販売されていた。
 俺がこうした経緯を知っていたのは、このイベントを知らせるポスターの制作を請け負ったことがあったからだ。しかし関心のある分野ではなく、俺にとっては数ある請負業務のひとつだった。早朝ということもあり、今まで一度も足を運んだことはなかった。俺が仕事で絡んだことがあることは、今は多香美には話したくなかった。

 リバーサイドマルシェは、二人が泊まったホテルから上流の方向に歩いて行ける距離にあった。
 多香美に導かれて、家族連れで賑わう農産物売り場を抜けていくと、ボックスカーを利用した臨時のコーヒーショップがあった。アウトドア用のテーブルが数席、露天に設置されていた。その一つに多香美を座らせて、俺は二人分のコーヒーを注文しにいった。
 ボックスカーの荷台から延長された店には、50 年代のアメリカを舞台にした映画にでてくるような、レトロでポップなラジオが置かれていて、それに似合うロックンロールの曲が流れていた。アメリカのオールディーズをコンセプトにしたカフェを駅前で営業しているのだと、店の人が教えてくれた。
 俺は注文したコーヒーを待つ間、多香美は他の誰かとも、ここに来たことがあるに違いないと考えた。

つづく 5/7
©️2024九竜なな也

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