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小説『男ともだち』感想散文

 最近オンライン読書会を主宰している。

 最近といいつつ、かれこれ半年くらいやっているかもしれない。かもしれないというのは、趣味にせよ仕事にせよ、どれくらい続けているんですか?と聴かれるとたいていわからないので、わたしの時間感覚はまるきりアテにならないせいだ。

 今回、課題図書として千早茜さんの著者『男ともだち』を扱わせていただいた。

 うまくまとめる自信がないので、あらすじは割愛するが、個人的な感想は、主人公を含めた登場人物の奔放な(実際はもっと色々な意味でちぐはぐで多様なのだが)倫理観と空間描写の繊細さのコントラストが美しい一冊だった。名前はよくわからないが、はじめて食べる異国のほろ苦いデザート、みたいな読み心地。たぶん今後自分では作らないし、生活圏内にもあまりないが、知らない土地に当たり前に根付く説得力がある。

 主人公の女性には学生時代から付き合いの長い男性の友人がいる。二人は他愛ない電話をするとか、食事に行くとか、旅行をするとか、気の置けない間柄で、とても親しい。そこに友愛以上の何かがあってもおかしくはないくらいには近しい。

 作中で彼らが男女の仲になることはないけれど、果たして多くの読者がどう捉えるのか。そのあたりは巻末の後書きに明瞭な作者の問い(あるいは答え)があるのでそこを読んでから作品を読むのに取りかかるのもいいかもしれない。

 『男女の友情は成立するのか?』とは長らく議論されるありふれたテーマであって、まさしく『男ともだち』はその問題に触れている(実際そればかりの話ではないが)ので、読書会でも自然と話題にのぼった。

 読書会は数人で行う場合もあれば、1対1で行う場合もあって、その日は後者だった。

 結論から言うと、『男女の友情は成立する』で完結した。今回お招きしたのは男性だったので、一般的には珍しいケースかもしれない。なかでも、たとえば同性に愛情を抱くケースであってもすべての同性が恋愛対象になるわけではないように、異性間でもすべての異性が恋愛対象になるわけではない、という論はわかりやすかった。

 しかし、未だにわからないことがある。なにをもって純粋な友情と呼ぶのだろうか。

 男女間においては異性への恋愛感情やあるいはセクシャルな魅力を感知しないような文脈ならば友情と呼べるのだろうか。

 そもそも同性の間であっても友情が純粋に成立するかは確かめようがない。そこに打算や性的感心が伴わないにせよ、なにかしら下心がまったくないケースがどれほどあるのだろう。

 各々がたぶんこれは友情だ、と信じているとは思うけれども。

 わたしは友だちが少ない。少ないので、せっかくだから、そこに友情が成立していると信じたいけれど、それは証明しようがないし、検証しようがない。

 いっしょに時間を過ごすことが楽しいとか、相手に人間的な魅力を感じているとか、コミュニケーションが滑らかであるとか。そういう友だちならではの居心地のよさをメリットと捉えるならば、それを享受したいと無意識ながら踏まえている時点で果たして純粋な友情と呼んでいいかはわからない。欲した何かがあれば一種の下心と言えなくはないだろうし。

 辞書的な意味合いで指すならば、『友人の間の情愛』らしいので、どうやらそこに純粋や透明みたいな枕言葉は必要ないようだ。

 だとしたら、たとえば後に恋愛に発展しようとしまいと、異性であれ同性であれ、何でもよくて。もっと根源的には、かたちに拘り必要はないわけで。もう好きにしたらいいし、個人の裁量に任せたらいいのだけれど。

 ややこしいことに親友で夫婦な関係性、みたいな実例も身近にあったりなかったりするので、だいたいそこで思考は一旦投了する。

 強いて理屈を捏ねるならば、わたしは友だちが少ないので、友だちができることがとても奇跡的なことだなあと思う。素晴らしく求心力をお持ちの方からすれば、日常なのかもしれないが。だから、たまたま男女で友情が成立したならば、それもちゃんと奇跡の一部なので、当たり前ではぜんぜんない。

 そうして、性別に関係なく、上部だけではない友情が成立するのはとても確率が低いと思う。

 男女の友情は成立するのか。結局、ごくたまに成立するんだろう。

 『男ともだち』の作中でもきっと成立していたと思う。抱き合わなくたって、愛情を囁かなくたって、お互いを大切にする術をちゃんと知っていることが、どうしたって隠せていなかった。

 きっと奇跡的な二人だったので。

 

 


 



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