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からっぽの手のひとよ(更級ログ5)

今日は眠れないので、夜更かしして『更級日記』。

『更級日記』は、『源氏物語』が完結して少しあとの平安時代中期を生きた、元・物語に憧れるオタク女子で現在は色々悟った中年女性となった菅原孝標女が、幼少期から50代までの半生をふりかえった回想録だ。菅原さん、たぶんエピソード記憶が大得意で、幼いころに見た光景や耳にした話、よまれた歌などを、たった今見聞きしたかのように鮮明に描写する。今読んでいる箇所は、50代になった菅原さんの表情が見える回想のひとこと。『源氏物語』全五十巻あまりをやっと手に入れ、夢中で読んでいた十三歳のころをこう振り返る。

「このころは、物語のことしか頭になかった。一日中、夜も灯りをともして目の開いているかぎり、ずっと読んでいた。『私はまだ幼く、器量がよくない。でも年頃のむすめになったら、顔だちは整って、髪もきれいに長く伸び、『源氏物語』に出てくる夕顔や浮舟みたいにきっとなるのだ』などと信じていた。今思うとあきれてしまう、そんなわけあるかい」

わかる、わかります菅原さん。高校生になりコンタクトにして体育の授業で長い髪をおだんごにまとめれば、風早くんが来てボールを拾ってくれて『君に届け』のような青春が待っていると信じた小学生の私と同じではないか。でも浮舟は途中から浮舟になったのではなく、生まれたときから浮舟なのだ。爽子は最初からぬばたまの黒髪に大きな瞳に真面目で優しいこころなのだ。

そういや、職場の新人の女の子たちが皆、アイドルのようにかわいい。夕顔、浮舟、朧月夜か。しかしだ、深夜の砂浜にすわり大海原にむかってうちあけると、私も調子のいい日は細目で見れば彼女たちと似た服装と髪型をしているし、マスクで顔は隠れているので、いっちょ、彼女たちとまとめて褒めてもらえないかとこころみたくなった。褒めれば褒め返してもらえるかなと思い、アイドルたちを褒めまくってみた。
「目がとてもきれいねえ、吸い込まれそう」
「天使のようだ」
「肌つやがとてもよいねえ」
浮舟たちは心根もやさしく、それぞれきらきらの涙袋をみせて笑い合い「ありがとうございます!!」といい、食堂へと去っていった。そうかい君たちは源氏の君のもとへ行くがいいさ。アタシャ源氏には興味ないね。女君なわけではない、私の名はいずこに。


あの日の あの海とともに消えた
雲のような人よ
みえないあなたに むかって
歌いましょうか子守歌を
とっておきの なめらかな節まわしで
夜ひかるブルースを
「夜のブルース」工藤直子

『更級日記』に出てくる夜の描写が好きだ。
家の人はみな寝静まった夜、十三歳の菅原のむすめさんは、姉とふたり縁側に出る。満月がこうこうと照る下で、姉は空を見上げて、
「私がたったいま、どこへともなく飛び去ってしまったら、あなたはどう思う?」
むすめはなんだか不安に思い、答えに困る。姉も「冗談よ」と笑い、話題をそらす。他愛ない話をしていると、すぐ近くの家に、高貴な人の車がとまる気配がする。
「荻の葉、荻の葉」
従者が女性の名を呼ぶが、返事はない。車のぬしは諦めたのか、笛を吹きながら帰ってゆく。澄んで細い音色は秋風のようにきこえる。
二人は息をひそめて目を交わす。「聞いた、いまの」「ね、そよ、とも答えないのね」

幼いきょうだいにとって、間近で聞いた秘めたやりとりはまさに物語の世界だった。荻の葉という女性と笛のぬしはどんな人なのか、なぜ荻の葉は返事をしなかったのか、空想にふけりながら夜をあかし、明るくなってから眠った。

このシーン、なつかしいような感じがする。自分の幼いころを思い出しているような。遠いむかし、皆が寝しずまったあと、縁側で夜風を頬に受けたりして、縁側の手すりにもたれて声をひそめて、やさしい姉と話したような。いやあれは私ではないような。遠いベールのむこうの記憶のひとつだ。なぜだろう?
(私の想像する縁側にはなぜか手すりがある)


からっぽの手のひとよ
ポケットの その手をだして
その手をだして
わたしに ください
「手をください」工藤直子

いちばん好きな場面を読んでから寝よう。
みやこへ行く途中、菅原のむすめさんが聞いた昔話だ。

武蔵国から宮中の警護に来ている兵士の青年が、「故郷に帰りたいなあ。平野いちめんに並べた酒壺に挿したひしゃくが風にゆらゆらなびく、あの景色を見ずに、おれはここで何をやってるんだか。つらい勤めの毎日だ」とぼやいているのを、すぐそばの宮殿の中にいた姫ぎみが偶然聞く。姫ぎみは柱に寄りかかり、御簾のかげから兵士をのぞいている。
(どんな景色なのだろう)
つい、御簾を押し上げ、兵士に声をかける。
「そこのあなた、こっちへ来て」
まさかの姫ぎみではないか。兵士は飛び上がってひれ伏す。
「ははー」
「私をそこへ連れていって。これにはわけがあるのです」
「ーーは??」

なんと困った姫ぎみだろう!そんなの姫の拉致だ、ばれたら命はないが、こうして命じられたらそうするほかない。どうする兵士。
(ええい、これがおれの因縁か)
腹を括った兵士は姫ぎみを背負い、七日七夜かけて故郷へ逃げた。その様子を目撃した人の証言いわく、「武蔵国の兵士が、何か香ばしいものを首にかけ、飛ぶように逃げて行った」。香ばしいものとは香をたきしめた衣を着た姫だが、兵士の足が早すぎて見えなかったそうな。
武蔵国に到着後、追っ手たちが姫を連れ戻しにに来たが、この姫はとても肝のすわった方だった。追っ手の大群に向けて大声でこう言い放つ。
「どうしてもこの家を見たくて連れてきてもらったの。これも前世からの因縁で、私はこの国をおさめるために生まれてきたのよ、早くみやこに帰って父にそう伝えなさい。私はもどりません!」
無理矢理連れ戻すわけにもいかなかったのか、みかどが親バカだったのか、姫が連行されることも兵士が罪に問われることもなく、二人は武蔵国の統治を任され、幸せに暮らしたという。歴史には残っていないが、私はこの人たちが本当にいたと信じている。御簾のかげから外の世界をのぞき、ひしゃくがゆらゆらなびく景色を見たくてたまらず兵士に声をかけてしまう気持ちを、そこで違う人生を生きたい気持ちを、とてもなつかしく思うのだ。


心の底に そのときの記憶が
うっすらと 沈んでいるのだが
この いちめんに にじんだものを
そっと ひとところに あつめたら……
あの日の匂いが たちのぼるだろうか
あの日の風が ふくだろうか
「思い出」工藤直子


夜にひかる記憶がある。たまにこうして探し当てる。
むすめさん、私は名もない私だが、みえないあなたの見たものをたどる旅をしている者です。


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