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自分のせい-自分が生きているせいで誰も幸せにならないと思い込む話-

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むむです。
「毎日のように愚痴を吹き込まれて…」という点で、前々回「こどもはいらない」からのやんわりとした続きになります。

小学生の頃、両親から、子どもと子どもにかかるお金をからめた互いへの愚痴を延々と何年も長い期間をかけて吹き込まれ、「自分が生きているから、家が貧乏で、両親も不仲で、幸せじゃないんだ」という思い込みが確固たるものとなり、エスカレートしていく様子を描きました。

悪いことは全部自分のせい

「お前たち(我々双子)が生まれたから、お金は倍かかるのに、稼ぎも増えない。夢がない」
「きょうだい四人の面倒見るのも大変やのに、あいつは何もしてくれない」
「『お金がないお金がない』って、子どもが四人もいてお金がないことをわかっているならあいつも働けばいいのに。誰の金だと思ってるんだ」

お互いに面と向かって言えばいいものを、両親は二人とも、それはしないで我々双子に延々と聞かせ、また理解と共感を求めました。
幼い頃はわからないままうんうんと聞いて、徐々にわかり始め、だいたいなんとなく理解できるようになった小学生の頃、何年もかけて刷り込まれた言葉たちが、自分むむの精神を蝕んでいきました。

子どもにはお金がかかる…
子どもがいるからお金が無いんだ…
自分が余計に生まれてしまったせいで、お金が余計になくなったんだ…
自分の身体が弱くて、喘息だから余計にお金がかかるんだ…
お金がないからおかーさんは怒るんだ…
お金がないから、怒ってるおかーさんを見て、おとーさんもイライラするんだ…
自分が生まれなければ、余計なお金がかからずに、みんなもっと幸せに暮らせていたかも…
自分が生まれてしまったせいで、おかーさんもおとーさんも何もかもがうまくいかないんだ…

そうだ、他にも自分が生まれてしまったせいで、うまくいくことがあったかも…
自分が迷惑をかけてしまった人たちは、自分が生まれていなければ迷惑をかけられずに幸せに暮らせていたかも…
学校の先生も、自分が生まれていなければ、こんな喘息持ちで面倒くさい、頭の悪い生徒の面倒なんて見る必要もなくて、幸せに暮らせていたかも…

この前教科書を忘れた時に見せてくれたクラスメイトも、自分が生まれていなければ教科書を自分みたいなどうしようもない人間と一緒に見るなんてしなくてすんだのに…きっと嫌だっただろうな…
この前道でぶつかった人も、自分が生まれていなければぶつからずに平穏にいられたのに…
駅で転んだ時、声をかけて手を貸してくれた人も、自分が生まれてさえいなければ電車に間に合ったのに…
大事な約束に遅れてしまったかも知れない…
だとしたら、その約束に関係する誰かにも、自分は自分が生きてしまっていることで迷惑をかけていることになる…

そうやって間接的に影響を与えているとしたら、自分は自分が生まれてしまったことで、生きていることで誰かを死なせてしまっているのでは…?

自分がいなければ何もかもがうまくいって…
みんな幸せな世界だったかも知れない…
自分が生まれてしまったせいで…
自分が生きているせいで…

「自分が間接的に与えた影響」まで考えはじめ、その思考はとどまることを知りませんでした。
まったく自分に関係がなくても、悪いできごとはすべて自分が生きているせいだと考えるようになりました。
近くの家から物が割れる音がしたり、けんかの声が聞こえたり、テレビの中で報道している事故のニュース、事件のニュース、他国の戦争の話…

ついには本当にまったく関係のない上に別に善悪すらないポストの色まで自分が生まれたせいで赤いのかも知れない…などと、もうまったく支離滅裂でした。

自分が生きていることで、お金がかることをはじめとして人に迷惑をかけているのだと思い、生きていることがいけないことのように感じられ、けれども命を絶つことまでは思いきれず、ただただ自責を繰り返す毎日になっていきました。

存在否定が怖くて誰にも言わない

ここまで書いていると、もはや廃人のようになっていてもおかしくないなと思いますが、実際にはそうではありませんでした。
建前…というか、人と接する時には普段と変わらず、何でもないように努めていました。
例え、わかりやすく落ち込んでいたとして、誰かが心配してくれたとしても、当時自分むむはそもそもこれは自分が生まれたせいで発生した悩みだと思っているので、誰かに相談したところで、「お前が自分で生まれたせいでしょ」と言われて終わりだとわかりきっているのです。
それならまだましで、「じゃあ死になよ」とさえ言われてしまうかも知れない、と思っていました。

そうですね、はいではさようなら~と思いきることもできなくて、自分むむが生きていることで他人に迷惑をかけていると思っているのに、そうやって突き放されることが怖くて、嫌われることをものすごく恐れて、結局誰にも言うことはありませんでした。

そうしている間にも、母の暴力や叱責は止まず、父も母も愚痴を我々双子に垂れ流し続け、沼のように海のように、自責の念の中にこもっていきました。

今思い出すと、本当に海の中のように、現実の音が、人の言葉が、言葉に込められた思いが、自分むむの内部まで届かないような、ふさがった感覚でした。
そして、意識していませんでしたが、世界が白っぽい感じに見えていたような記憶があります。
太陽の光が強すぎて、色が白く飛んでしまったような感じでした。

ただし、絵を描いている時とゲームをプレイする時だけは違いました。
これらの時は現実の問題を忘れることができるからです。
現実逃避のために、これらに没頭しました。(ゲームは親からの指示で一週間のうち30分しか許されませんでしたが…)

もしかすると本格的に病んでいたのかも知れません。
とは言え、もし病んでいることを自覚できたとしても、当時の自分むむはそれはお金が余計にかかると言って絶対に病院は行かなかったでしょうし、親も支出や体裁を気にし、また普通に食べて寝て話せて学校に行っている(実際には休むことは許されなかった)自分むむを病気のはずがないと突っぱねて許さなかったでしょう。

行きすぎた自責は影響力の過大評価

今は、何もかもが自分のせいだと考えるのは、逆に考えれば、自分の影響力を過大評価し過ぎだと思えます。
確かに自分が生まれなければ、ぶつかった人は時間も浪費せずにすんだでしょう。
クラスメイトも面倒くさい思いをせずに楽かも知れません。
駅で転んだ自分むむを助けた人も、電車に間に合ったかも知れません。

けれども、それらは自分むむだけが原因ではないでしょう。
ぶつかった人も不注意だったでしょうし、クラスメイトや駅で助けてくれた人は、自ら自分むむを助けることを選択しています。
(これが、自分むむが超金持ちのスーパー権力者で、誰も逆らえないような人間であったなら、ちょっとそれは選択と言えるのか?と思いますが…)

そういった、他人の決定や感情を無視し、「自分(だけ)のせいだ」「面倒くさいに決まってる」「誰も幸せになれない」などと決めつけるのは、母や父と同じように、他人が思考を持つ別の個人・存在であるということを認めない、人として扱っていないことになります。

しかも、悪い影響しか見ないあたりも都合がいいです。
それこそ、自分むむとぶつかったからいいことがあった人もいるかも知れません。
自分むむは普通に誰かの落とし物を拾ったり、道を教えたりすることもありますし、ありました。
それは、紛れもなく救われた人がいるということです。
自分むむが生まれたからこそあったいい影響も、何かしらあったでしょう。

それはなかったことにしてしまうあたりが、なんとも調子がいいです。

果てはポストの色とか…
生まれてすらいない時に決まったことまで自分のせいなどと、自分を神か何かだとでも思っているのでしょうか…(過去の自分ですけどね)

とは言え、当時の自分にそういったことを伝えても、きっと素直には受け取ることはできなかったでしょう。
それほどまでに、自分の視野も、思考も、狭くふさぎ込んでしまっていました。
毎日受け取らなくてはならない愚痴の波や威圧・暴力と暴言の嵐に、そういう客観性を持つ余裕はさらわれてしまったのだと思います。

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