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道徳の話について

「道徳」じゃなくて「倫理」の時間なんでしょ?


今はどうだろうか
わたしが中学生だった時の道徳の話。
今日は、今日も?(w)かな、愚痴だよ。


わたしは最近NHKがすごく好きで、そこで学校の道徳の時間に嫌な思いをしたという話を聞いて思い出した。

小学生まで道徳は好きだった。
自由に描いていいし正誤もなく、たまにつく先生の一言も楽しみだった。
4年生の時には、特に宿題とかではなかったけど
土日にあったことをローマ字で作文(日記)し、それを毎週月曜に提出していた。何故かは覚えてないし、「めんどくさいな~」と思った記憶もあるが、
何かと自分の考えを自由に描けるのが楽しかったのかもしれない。

中学一年生の時。
同じ年頃のクラスという設定で、確か車椅子に乗った生徒が何かの拍子に(覚えてない)尿を漏らしてしまい、何もしない人も居れば、真っ先に雑巾を持ってきて先生と一緒に拭き始める生徒もいたり、遠巻きに何か語り合ってるグループもいるという描写。
その後にあなたならどうするか、というような問だった。
「車椅子の生徒」というのになんとなく違和感を覚えたし、どこか「可哀想」を無理やり引き出そうとしてるみたいでとにかくしっくり来なかったのを覚えてる。今みたいに言語化はできなかったけど。
中学一年生だったのでその時の思考はあんまり覚えてないが、どうせ他の人は「自分も一緒に雑巾を持ってきて拭く」と答えるけど、多分そんなに拭く人いらないだろうという思考に至り『自分は何もしないで突っ立ってみている』と、先生に当てられたわたしは答えた。
隣の席の人からは「お前マジか」と笑いながら言われ、先生はあとからわたしの考えを誰が聞いても当たり障りない方向に捻じ曲げて訂正し、次の話題に移った。

わたしの道徳に対する感情は「自分の考えを自由に描ける」楽しさから「自分の考えに正誤をつけら抑えつけられる」圧力を感じた瞬間だった。

「協調性」と言ってそれぞれのちがいを認めず、また活かそうとせず、誰かに合わせないといけない同調圧力を感じる学校のグループワークなどはわたしにとって「道徳」そのものである。
「話し合おう!」は嫌いだ。知らない人と、特に話したくもないのに強制的に会話させられるのは苦痛でしかない。


先生も問も、答を求めてるのをなんとなく感じたから敢えて「自分の考え」をかいた。

道徳に正誤をつけられたショックはまだ覚えてる。

自分が何を感じているのか知り、自分と他人や、他人と他人の価値観のちがいを学ぶ。道徳はそうやって自分を知ったり自己を確立する時間であるべきはず。

何か飛び抜けて得意だったり不得意だったりすると馴染めなくて、心は傷ついたり不登校になったり。というNHKの番組でした。
どうしてそうなってしまうのか、どうして誰かが傷ついてしまう教育なのかは「日本の学校教育の歴史にある」と、戦後の教育について語っていました。
戦後は戦後でそれでよかったかもしれないけど、(本当は辛かった人もいたはず)何故今になって戦後の話をしているんだ?と思いました。
日本の教育はまだ戦後のままだったんですね…
ここでもブレイディみかこさんの知識が過ぎりました。
道徳の回答の内容がどうあれ、まさかのあの「道徳」に正誤があり道徳の時間なのに何故か人とちがう考えをいうと非難される辛さにすごく共感しました。倫理の時間では???
NHK大好き。受信料払ってないけど。

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