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幸田露伴の小説「運命3・靖難の乱」

運命3 

 燕王が挙兵した建文元年七月から建文帝が国を譲った建文四年六月までは、烽烟あがり剣刃(けんじん)ひらめく戦乱の歴史であって、今ここに一々これを記(しる)すのも気が進まない。その詳細を知りたい人は「明史」及び「明朝紀事本末」等を調べるとよい。今はただその概略と、燕王と建文帝の性格風貌を知る範囲で記そう。燕王は元来が智勇優れた人であったが、その上に征戦の度毎(たびごと)に智勇を磨く。洪武二十三年に諸王と共に漠北で元軍を征伐する。兄の秦王と晋王は臆病にも進軍をためらったが、燕王は将軍の伝友徳(でんゆうとく)等を率いて北進し、迤都山(いとさん)において元将のナルブファを捕えて還る。太祖は大いに喜び、これ以降しばしば諸将を率いて出征させたが、その都度戦功があり威名大いに振るう。燕王すでに用兵を知り戦いに慣れる。それに加え道衍が作戦に参画し、張玉や朱能や丘福(きゅうふく)がいて手足となる。丘福は計略の才能は張玉に及ばないが、朴直勇猛で深く敵陣に入り奮戦死闘し、戦い終ると戦功を必ず人に譲る。昔の大樹(たいじゅ)将軍のような風格があり、燕王に「丘将軍の功績を我は知る」と歎美させる。なので、燕王が功臣を褒賞する際には常にその筆頭となり淇国公に封じられる。その他の将士にも勇猛を誇る者が少なくない。思うに燕王の挙兵も勝算あってのことである。張昺と謝貴を斬って反旗を挙げるや郭資(かくし)を残して北平を守らせ、直ちに自ら出陣して通州を取り、「先ず薊州を平定しなければ後顧の憂いがありましょう」と云う張玉の進言を入れて、張玉にこれを攻略させ、次いで夜襲して遵化(じゅんか)を降伏させる。これ等はみな開平の東北の土地である。その時、敵将の余瑱は居庸関を守る。燕王は云う、「居庸関は北平の喉元である、敵が居庸関に居ては我が背後が危うい。急ぎ居庸関を取れ」と。そして徐安(じょあん)と鐘祥(しょうしょう)等に余瑱を討たせてこれを懐来に逃走させる。懐来には宋忠の軍が居て、その兵は三万を擁す。諸将はこれを討つのは難しいとする。燕王云う、「彼の軍は兵多く、わが軍は兵が少ない。しかし、彼の軍は新らたに編成されたもので未だ統一がとれていない、これを討てば必ず破れよう」と。精兵八千を率い、迂回して戦い、ついに勝って宋忠と余瑱を捕えてこれを斬る。ここにおいて諸州は、燕に降伏する者多く永平も欒州(らんしゅう)もまた燕に降る。大寧の都指揮の卜(ぼく)萬(まん)は松亭関を出て沙河にとどまり遵化を攻めようとする。兵十万を擁し強勢である。燕王はスパイを放って敵内部の仲間割れを図り、卜萬の部将の陳亨と劉貞に卜萬を捕らえさせ獄に入れさせる。

 建文帝は黄子澄の進言を用いて、長興侯耿炳文(こうへいぶん)を大将軍にし、李堅(りけん)と寧忠(ねいちゅう)を副将にして北伐を命じ、また安陸侯呉傑(ごけつ)・江陰侯呉高(ごこう)・都督及び都指揮の盛庸(せいよう)・潘忠(はんちゅう)・楊松(ようしょう)・顧成(こせい)・徐凱・李文(りぶん)・陳暉(ちんき)・平安等に命じて、諸方面から直ちに北平を突かせる。そのとき帝は将士を諫めて云われる、「昔蕭繹(しょうえき)は挙兵して都に入ろうとする時に部下に命じて、一門に対して兵力を使うは不祥の極みであると云う。今、汝等将士は燕王に対するに当っては、努めてこの意を心得て、朕に叔父殺しの名を与えないようにせよ」と云われる。(蕭繹は梁の元帝である。今「梁書」を見てもこのことは載っていない。思うに元帝が挙兵して賊を誅殺して都に入ろうとするその時に、河東王の誉(よ)は帝に背いて却って帝の子の方(ほう)等を殺す。帝は鮑泉(ほうせん)を派遣してこれを討伐して代わりに僧弁を将にする。帝は高祖武帝の第七子で、誉は武帝の長男である昭明太子の第二子である。「一門」の言葉は誉を征伐する時に発したものか)。建文帝の優しい性質は無用な情けをかけて却って害を招く。燕王は叔父とはいえども既に爵位を剥奪(はくだつ)された庶人である。庶人の身で凶器を振りまわして帝に反抗する。その罪はもちろん誅殺に相当する。であるのに、このような命令を出征の将士に下す。これでは軍勢の勢いを殺ぎ兵士を小胆にするだけである。知恵のあることではない。この命令があるために武器を用いて燕王を倒すことが出来なかった。しかしながら、小人の過ちは酷薄から出るが長者の過ちは寛厚から出る、帝の過ちを観て帝の人柄を知るがよい。

 八月、耿炳文等は兵三十万を率いて真定(しんてい)に到着し、徐凱は兵十万を率いて河間にとどまる。炳文は老将で太祖の創業からの功臣である。かつて張士誠(ちょうしせい)と対峙して長興を守ること十年、大小数十戦を戦って勝たないこと無く、ついに士誠の野心を挫いたたことで、太祖は功臣の序列を読み上げる時に、炳文を大将軍徐達と共に第一等とした。後にまた北においては要塞を出ては元(げん)の残党を破り、南においては雲南を征伐して蛮族を平定し、或いは陝西に、或いは蜀に、旗印の向かうところ常に戦功をあげた。特に洪武の末には多くの元勲や宿将が次々と粛清されて消え去っていった中で、生き残りの炳文は朝廷の宿将として重んじられていた。今、大軍を率いて燕軍征討のために北に向かう。時に年は六十五、樹老いて材いよいよ堅く、将老いて軍いよいよ堅い。しかしながら不幸にして、先鋒の楊松が燕王に不意を襲われて雄県で死に、これを救おうとした潘忠は月漾橋(げつようきょう)で伏兵に捕らえられ、武将の張(ちょう)保(ほ)は投降して敵の手先となり、ついに滹沱河(こだか)において、燕王及び張玉・朱能・譚淵・馬雲等のために大敗を喫して、李堅・寧忠・顧成・劉燧等を失う。しかしながら老練な炳文軍は大敗しても壊滅せず、真定城に入って門を閉じて堅く守る。燕軍は勝ちに乗じて襲い掛かること三日、ついに下すことが出来ない。燕王も炳文が老将であるが破り難いことを知って包囲を解いて帰陣する。

 炳文の一敗は未(ま)だ取り返せたであろう、しかし建文帝は炳文の敗戦を聞いて怒り、炳文を更迭して大将軍を李景隆に代えたことで、大勢はほとんど決まる。景隆は貴族の軟弱子弟であり、これでは昔、趙が廉頗(れんぱ)に代えて張括(ちょうかつ)を総大将にしたようなことで(中国・戦国時代の長平の戦いにおいて、秦軍の勢いに対抗して趙軍の総大将廉頗は籠城して長期戦に持ち込む、趙の孝成王は廉頗を若い経験不足な趙括に代えて敗戦を招く)、建文帝が位を失うことになったのは、実に軍事においてこのようなことが行われたことにある。炳文の子の璿(えい)は帝の父の懿文太子の長女江都公主(こうとこうしゅ)を妻にしている。璿は父の更迭を甚だ憤ったと云う。また璿の弟の瓛(けん)は、遼東鎮守の呉高や都指揮使の楊文と共に兵を率いて永平を包囲して東から北平を突こうとしたと云う。二子の護国の思いの誠を知るべきである。ソレ勝敗は戦いの常である。蘇東坡(そとうば)が云うように、「能く賭け事をする者も日に勝って日に敗ける」ものである。であるのに一敗しただけで老将を退け若輩を挙げる。燕王は手を打って笑い、「李景隆は家柄が良いだけの青二才だ。実戦の経験も無い。五十万の兵を与えられても、自分で墓穴を掘るだろう。」と云ったのも、酷(こく)な言葉だが当っていないことも無い。炳文の更迭は実に嘆かわしいことである。

 景隆、小字(しょうじ)は九江、経験も無いのに大将軍になれたのは何故か。黄子澄や齊泰の勧めによったのであるが、また別に理由がある。景隆は李文忠の子で、文忠は太祖の姉の子で且つ太祖の子となった者である。これに加えて文忠はおだやかな落ち着いた人物で、学を好み経を修め、その立ち居振る舞いは恭しく儒者のようで、しかも武装して馬に乗り矛を以って戦陣に臨めば舌峰鋭く、大敵に遇っても益々盛んに、十九の年から従軍してしばしば勲功を立て、創業の元勲として太祖の愛重するところとなるだけでなく、西安においては水道を敷設して民の生活を便利にし、応天においては田の租税を廉(やす)くして民をいつくしみ、死刑を少なくすることを勧め、宦官(かんがん)を重用することを諫め、洪武十五年には、太祖が日本の懐良王(かねながおう)の書に激怒してこれを討とうとしたのを止める。(懐良王を「明史」で良懐としているのは、思うにこれは誤りである。懐良王は後醍醐天皇の皇子で、延元三年に征西大将軍に成って筑紫を鎮撫する。菊池武光等がこれに従って興国から正平年間かけて勢威大いに張る。明の太祖が沿岸を倭寇(わこう)に乱されたのを怒って洪武十四年に、「日本を征伐するぞ」と威嚇すると、王は書を送って答える。その書の大略に、「天地は広大で一人の独占するものではありません。宇宙は大きいため諸邦に分かれています。思うに天下は天下の天下であり、一人の天下ではありません。私は天朝に我が国を攻める計画があると聞きます。しかし我が国も小国ですがこれを防ぐ策があります。どうして道に膝まづいてこれを奉じることが有りましょう。これに従っても必ずしも生は保証されず、これに逆らっても死ぬと決まったわけではありません。互いに賀蘭山前(がらんさんぜん)においていささか勝負をしましょう。私は何も恐れません。」と云う。太祖は書を見て甚だしく怒り、本当に派兵しようとする。洪武十四年は我が国では南朝の弘和元年に当たる。その時すでに王は今川了俊に圧迫されて衰勢に陥っていて、征西大将軍の職を後村上天皇の皇子の良成王に譲って、筑後の矢部に閑居し読経礼仏(どきょうらいぶつ)を専らにして兵事の務めはなされていないので、年代が食い違っている。しかしながら、懐良王と明との交渉は早くも正平の末から起こったことなので、王が独断で答書したのであろう。このことは我が国には史料が全く無く、大日本史にも載ってはいないが、彼の国の歴史であるのに、彼の国の威厳を損なうことが記されていることからも、事実無根の話ではない。)その一個優秀な風格は中々得がたい人である。洪武十七年に病気で死ぬと、太祖は李文忠が死ぬと自身で文を作り葬祭を執り行い、岐陽王に追封して武靖と諡(おくりな)をして大廟に分祀した。景隆はこのような人の長子で、その父の武勲と帝室の親族との関係から斉泰や黄子澄等が勧め、建文帝の認めるところとなって、五十万の大軍を統率することになった。景隆は長身で、容貌は優れているとは言えないが、洗練された上品な人柄は人が振り返るほどで、一見すると大人物のように見える。しばしば出陣して湖広・狹西・河南に軍を展開して左軍都督府事になったが、他にはたいした事も無く、その功績としては周王を捕えただけであるが、帝をはじめ大臣等は景隆を大器であるとしていた。しかしながら、外見は虎のようだが内質は羊のような人で、いわゆる平時では好将軍だが戦場では真の豪傑とは云えない。血を踏み剣を揮って進み傷を包み歯を食いしばって戦うようなことは、未だかって経験したことがないので、燕王が笑って評したのも図星なのである。

 李景隆は大軍を率いて燕王を討とうと北上する。帝は猶も北方は心配ないとして、専ら文政に専念して儒臣の方孝孺(ほうこうじゅ)等と周礼(しゅうらい)の法制度を討論して日を送る。この時において監察御史の韓郁(かんいく)(或いは康郁と書く)と云う者が時事を憂いて上疏した。その趣旨は齊泰や黄子澄の考えを残酷な小儒(しょうじゅ)の策だとして、諸王は太祖の遺子であり孝行を行う者であるのにこれを厚遇すること無く、周王・湘王・代王・齊王を不幸にしたのは朝廷の政治を司る者の過ちであって、即ち朝廷を過激にさせたものだとして、親しい者はこれを割(さ)いても断たれず、疎い者はこれを接いでも堅くないと諺に云うが、これが道理であるとし、燕が挙兵するに及んで財を使い兵を損耗して、しかも結果が良くないのであれば、国に知恵者が無いに等しいとして、「願わくは齊王を許し、昭王を封じ、周王を国に還し、諸王と世子に書状をもって燕王に勧めさせて、戦を止めて親睦を敦(あつ)くしたまえ、さもなければ十年も経たずに必ず後悔先に立たずの悔いが生じましょうというのである。この進言の人道を敦くして乱を鎮(しず)めようとするのは善い、また齊泰や黄子澄を非とするのも善いが、ただ時はすでに去り、勢いのすでに成る後にこの進言があっても、アア、また遅かった。帝がこの進言を用いられることは無かった。

 景隆が炳文に代わると、燕王は景隆軍の五十万の兵を恐れず、景隆の将としての五ツの欠点を挙げて、「景隆はどんな才能を以って五十万の兵を率いると云うのか、まことに笑わせる。我は景隆を擒(とりこ)にするぞ。」と云って、諸将の進言を用いず北平を世子に任せて東に出て、江陰侯の呉高を永平から追い払い、進路を変えて大寧に転戦してこれを破り、寧王を引連れて関に入る。景隆は燕王が大寧を攻めたのを聞いて軍を率いて北進し、ついに北平を囲んだ。北平の李譲(りじょう)や梁明(りょうめい)等は世子を立てて甚だ防衛に努めたが、景隆の軍は兵多く将にもまた雄傑が居て、都督の瞿能(くのう)などは張掖門に押し寄せて大いに勇威を奮って城をほとんど破る。であるのに、器の小さい景隆は瞿能の働きを喜ばず、「出抜けをせずに軍と共に進め」と命じて、好機に乗じての突入をしなかった。こうなると守る方も余裕が出来て、連夜に亘り水を汲んで城壁に注ぐと、寒気に忽ち氷結して翌朝には登ることが出来ないようになる。燕王はあらかじめ景隆の軍を我が堅城の下に置いて、これを殲滅(せんめつ)することを考えていたが、景隆がすでに的に入って来た。どうして矢を放たないことあろう。大寧から会州に還って来ると、軍を五ツに分けて、張玉を中軍の、朱能を左軍の、李彬(りひん)を右軍の、徐忠を前軍の、降将の房寛(ぼうかん)を後軍の将として、徐々に南下して景隆軍と対峙した。十一月、景隆軍の先鋒の陳暉は河を渡って東に進む。燕王は兵を率い来て河水が渡れないと見ると、「天もし我を助けるのであれば河水を氷結せよ」と黙祷(もくとう)する。すると果して夜になって河水は氷結する。燕軍は勇躍して進み陳暉の軍を破る。景隆軍は動揺する。燕王は左右の軍を放って挟撃を加えて七ツの陣を破り、景隆の陣営に迫る。張玉等も陣を連ねて進むと城中もまた兵を出して、内と外からそれぞれ攻める。景隆は支えきれずに逃れ、諸将もまた糧食を棄てて逃げ走る。燕の諸将はここに於いて頷(うなず)き王の妙計を称える。王は云う、「たまたま的中しただけである。諸君の策も皆万金の策である」と。前においては断行し、後においては謙遜する。燕王は英雄の心をつかむことも巧みであると云える。

 景隆の大軍は戦功無く徳州に退却して駐屯する。黄子澄は敗戦の報告が無かったので、却って十二月になって景隆に太子太師の位を加える。燕王は皇軍を寒苦に翻弄して疲れさせようと、軍を出して広昌を攻めてこれを降す。

 以前において諸藩を削るよう上疏した高巍は、進言が用いられず遂に天下が動乱となったことを歎いて、上書して、「臣、願わくは、使者として燕に出向いて言うことがあります」と願い、許されて燕に赴き、燕王に上書して、「太祖は、お亡くなりになった後に大王と朝廷とが争おうとは思っても居られなかったことで有りましょう。巍が思いますに戦いは和解するには及びません。願わくは死の覚悟をもって大王にお会いしたい。その昔、周公は流言を聞いて、そのため天子を避けて都を離れて東都に居りました。もし大王が首謀者を斬りたまい、兵を解き、子孫を質にして親族間の疑いを解き、残党や親族離間の口をふさがれるならば、名声は周公と並び称されましょう。であるのに、思いを此処に及ばせたまわず、兵を起こして領界を襲われる。であれば、関係する者は、大王が奸臣を成敗する口実の下に、実は漢の呉王が七国に呼びかけて晁錯を成敗したような事をすると云うでありましょう。今、北平に拠って数郡を取られたといえども、数ケ月経って今も猶、辺陬の小さな地を出ることが出来ません。天下を十五とすれば未だその一も取れておりません。大王の将士もまた疲れていないと云えましょうか。大王の率いる将士は大凡三十万に過ぎません。大王と天子とは義(ぎ)においては即ち君臣であります。親(しん)においては即ち骨肉であります。しかるに尚も隔たり離れたまう。三十万の異姓の士などは、終生変わらず困難に直面しても大王のために死ぬと申しましょうか。巍は思いが此処に至る度に涙を流さずにはおられません。願わくは大王が巍の言を信じ、上表して帝に謝罪し兵を収められるならば、朝廷も必ず寛大に対応されましょう。天下共に悦び、天上に在られる太祖の霊もまたご安心なされましょう。モシ迷いが取れずに、小さな勝利を恃(たの)んで大義を忘れ、寡(か)を以って衆に抗(あらが)い、為してはならない道義に反することを僥倖(ぎょうこう)を頼りに敢えて為されるのであれば、巍は大王のために申すべき言葉もありません。まして大葬の期間も未だ終わらないうちに罪の無い民を驚かされる。仁を求め国を護る大義と隔たることも甚だしい。大王に朝廷を粛清し奸臣を排除する誠意がおありでも、天下には大王が正統を簒奪するとの批判が無いとは云えません。もし幸いに大王が破れずに事が成ったとしても、後世の公論は大王をどのような人と思うでありましょう。巍は白髪の老書生、老い先短い命、もとより死を恐れません。孝武十七年に太祖は臣の孝行を忝(かたじけな)くも顕表したまいました。巍はすでに孝子(こうし)であます、正に忠臣でありたい。孝に死に忠に死ぬのは巍の至願であります。巍が幸いにして天下のために死んで、在天の太祖の霊にお会いすることが出来るのであれば、巍もまた以って愧(は)じるところがありません。巍は誠心誠意遠慮なく直言して、大王の尊厳を冒涜(ぼうとく)する、死を賜(たまわ)るとも悔いはありません。願わくは大王、今ここに再考したまえ。」と憚ることなく申し述べる。しかし燕王が答えないので、巍はその後もしばしば上書したが、その甲斐は無かった。

 巍の上書は、人情の純、道理の正しいところから言(げん)を述べる、燕王がこれに対してどのような感じを持ったか分からないが、ただ燕王は既に挙兵して戦っている。巍の言がいくら善しといえども大河は既に決している、大河の流れを葦は支えられない、しかしながら巍は誠を尽くして志を貫く、その思いとその進言は忠孝敦厚の人であることに背かない。数百年の後にもなお読む人に愴然とした感情を起こさせる。巍と韓郁とは建文帝の時代において、人情の純と道理の正しさに基づいて進言を為した者である。

 年は改まって建文二年になった。燕では洪武三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて蔚州(いしゅう)を降伏させ、大同を攻める。景隆が軍を出してこれを救おうとすると、燕王はすみやかに居庸関から入って北平に還り、景隆軍は寒苦の中を奔走に疲れて、戦わずして自ら敗れる。二月、燕に韃靼(だったん)から援兵が来る。思うに春暖になれば景隆の軍が再び来て、戦いの始まることを考慮して燕王が要請したのであろう。春が闌(たけなわ)になったので皇軍に勢いが生じる。四月初め、景隆は軍を徳州に集結させる。郭英(かくえい)と呉傑は真定に進む。帝は巍国公の徐輝祖に兵三万を率いて疾駆させ、景隆軍に合流させる。景隆・郭英・呉傑等は六十万を合わせ、百万と称して白溝河に構える。皇軍の将平安(へいあん)は驍勇の者で、かつて燕王に従って塞北(さいほく)で戦い、燕王の用兵の裏表(うらおもて)をつぶさに知る。先鋒となって燕に対し、矛(ほこ)を揮(ふる)って進む。瞿能父子もまた勇躍して戦う。二将の向かうところの燕兵は恐れおののく。夜になって燕王は、張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳享を右軍に、丘福を騎兵の将とし、騎兵と歩兵の十余万の軍は夜明け前に悉(ことごと)く河を渡る。皇軍の瞿能父子と平安等は房寛の陣を突いてこれを破る。張玉等はこれを見て怖気づく様子がある。王は「勝負は常の事だ、この日のうちに必ず諸君のために敵を破る。」と云って、直ちに精鋭数千に指示して敵の左翼に突入させる。王の二男の高煦(こうく)は張玉等の軍を率いて一斉に進む。両軍相争い一進一退する。喊声(かんせい)は天に震え、飛矢(ひや)が雨(あめ)霰(あられ)と降る。王の馬は三たび傷を負い、三たび馬を代える。王はよく射る。三ツの矢筒の矢を悉く使い尽くす。そこで剣を引っ提げて、先陣を切って敵陣に入り、右左(みぎひだり)と奮撃する。剣は折れ欠けて使用に堪えなくなる。瞿能と遭遇する。能に敵わず、王は急ぎ逃げて土手に上り、鞭を振って後続の者を差し招くふりをして、危うく難を逃れる。そしてまた衆を率いて駆け入る。平安は能く鎗刀(そうとう)を使って向かうところ敵なし。燕将の陳享は平安のために斬られ、徐忠もまた傷をこうむる。高煦は事態の急を見て、精騎数千を率いて、進んで王と合流しようとする。瞿能がまたも猛襲し、大呼して「燕を殲滅する」と云う。たまたま旋風が突発して皇軍の大将旗を折る。皇軍の将兵はこれを見て驚き動揺する。王はこれに乗じて騎兵の精鋭を引連れ、迂回して皇軍の後ろへ出て突入し、敵を駆逐して高煦の軍と合流し、瞿能父子を乱軍の中で殺す。平安は朱能と戦ってこれもまた破れる。皇軍の将の兪通淵(ゆつうえん)や勝聚(しょうしゅう)等も皆死す。燕兵は勢いに乗じて皇軍の陣営に迫り火を放つ。急風が火を煽る。ここにおいて皇軍は壊滅し、郭英等は西に敗走し、景隆は南に逃走する。皇軍の糧食・武器・弾薬等は全て燕の獲得するところとなり、皇軍の死者は百余里に亘って横たわる。この戦いに於いて、満足な状態で軍を退いた者は徐輝祖だけであった。瞿能や平安等の驍将が在っても景隆に大将の器が無く、燕王父子の生まれついての豪勇に加え、張玉・朱能・丘福等の勇将に対しては、燕軍が勝ち皇軍が潰えるのも、まことに理由あってのことなのである。

 山東参政の鉄鉉は儒生から身を起こし、かつて疑獄を批判して太祖に知られ、鼎石(ていせき)と云う字(あざな)を賜った者である。北征の軍が出兵すると、兵糧を携行して景隆軍に合流しようとしたが、景隆軍が破れて、諸州の城が皆情勢を見て燕に降伏するのに会い、臨邑(りんゆう)に宿り留まっていたが、燕に出向いて南帰する高巍に出会った。共に文臣とはいえども今や戦時の時に当たって、目前で皇軍が大いに敗れ、賊軍の勢い盛んなことを見ては、どうして憤(いきどお)らないことがあろう。巍が燕王に上書して、無駄であったことを歎けば、鉉は忠臣の節義に死ぬことの少ないことを憤る。慨世(がいせい)の歎き、憂国の涙、二人は見つめ合いハラハラと泣いて、酒を酌んで共に盟(ちか)い、死を以て自ら誓い、済南に逃げてこれを守った。景隆は逃げて済南に拠る。燕王は勝ちに乗じて諸将を進軍させた。燕兵が済南に着くと、景隆はなお十余万の兵を有していたが、一戦で敗れて単騎逃げ去る。燕軍の勢いは益々盛んになって城を落とそうとする。鉄鉉は左都督の盛庸や右都督の陳暉等と共に力を尽くして之を防ぎ、志を堅くして守り、何日経っても屈しない。この事が朝廷に聞こえて、鉉を山東布政使にし、盛庸を大将軍にして、陳暉を副将軍に昇格させる。景隆が召喚されると黄子澄や練子等が、「これを罰しないで、どうして御先祖に謝り、将士を励ますことが出来ましょう。」と云ったが、帝はついに罪を問われなかった。燕王は済南を囲むこと三月(みつき)になっても降伏させることが出来ないので、城外の諸川の水を注いで水攻めにしようとする。城中はここに於いて大いに動揺するが、鉉は「恐れることはない、吾に計略あり」と云い、千人を使い偽りの投降をさせて、燕王を迎えて城に入らせ、あらかじめ壮士を城上に待ち伏せさせて、王が入ったところを大鉄板を落としてこれを撃ち、また別に伏兵を置いて橋を断とうとする。燕王は計略にはまって、馬に乗り天蓋を張って橋を渡って城に入る。大鉄板が落とされる。ただ少し早過ぎて王の馬の首を傷つける。王は驚いて馬を代えて馳せ出る。橋を落とそうとするが橋は甚だ堅い。未だ落とせないうちに王は逃げ去る。燕王は危うく死ぬところであったが、幸に逃れる。天の助けがあったものか。王は大いに怒り、巨砲を用いて城を撃たせる。城壁は破れそうになる。鉉はいよいよ屈しない。太祖の神牌(しんぱい)を書いて城上に懸けさせる。燕王は敢えて撃たす事が出来ない。鉉はしばしば不意を突いて出て、壮士を放って燕兵を脅かす。燕王は憤ること甚だしいが良い方策も出ない。道衍は急ぎ書を上げて、「軍衰えたり、乞う暫く北平に還って再挙を図りたまえ」と云う。王は囲みを撤収して北平に還る。鉉と盛庸等は勢いに乗じてこれを追い、ついに徳州を回復して、皇軍は大いに振るう。鉉はここに於いて抜擢されて兵部尚書となり、盛庸は歴城侯になった。

 盛庸は始め耿炳文に従い、次いで李景隆に従っていたが、洪武の時から武官であったので軍事のことは習っていた。濟南の防禦や徳州の回復でその能力が認められ、平燕将軍となって陳寧・平安・馬溥・徐真等の上に立って、呉傑・徐凱等と共に燕の討伐にあたる。庸は呉傑と平安に西方面の定州を守らせ、徐凱を東方面の滄州に駐屯させ、自身は徳州に留まって敵の軍勢を圧倒し、徐々に燕軍を鎮圧しようとした。燕王は徳州の城の修築が完全で、且つ防備も厳重で破り難いのを知り、一方また滄州の城は永い間の荒廃で破りやすいことを思い、これを降して庸の勢いを殺ごうと考えた。直ちに表向きには遼東攻めを命じて、徐凱の備えを油断させ、天津(てんしん)から直沽(ちょくこ)に進み、急遽、河に沿って南下することを命じる。兵士は未だ知らずにその東を攻めようとして、南下することを疑う。王は厳命して疾駆すること三百里、途中偵察の者に遇えばことごとくこれを殺し、一昼夜を駆けて暁に滄州に着く。徐凱が燕軍の到来を知った時には、すでに燕軍が四方から急襲する。滄州の軍勢は皆驚いて防ぐことが出来ない。張玉の軍勢は肉薄して城に登り、遂に滄州城は落城する。徐凱・程暹・兪琪・趙滸等は皆捕獲される。実にこれはこの年の十月のことである。

 十二月、燕王は河に沿って南下する。盛庸が兵を出して後を襲ったが、間に合わなかった。王はついに臨清に着き、館(かん)陶(とう)に駐屯し、次いで大名府を掠奪し、方向を変え汶上(ぶんじょう)に着き、済寧を掠奪する。盛庸と鉄鉉は兵を率いてその後を追い、東昌に陣を置く。この時北軍(燕軍)は却って南に在り、南軍(皇軍)は北に在り、北軍と南軍は戦わない訳には行かない事態となって、ここに東昌の激戦がついに始まる。初め皇軍の先鋒の孫霖(そんりん)が燕軍の朱栄と劉江のために敗走したが、両軍は自重し、互いに動かないこと十日を越える。燕軍がいよいよ東昌に迫ると、盛庸と鉄鉉は牛を屠(ほふ)って将士をねぎらい、正義を唱えて軍勢を励まし、ひそかに火器と毒矢を揃えて静かに敵を待ち受ける。燕兵はもとより勇敢で毎戦毎勝する。盛庸の軍を見ると鬨(とき)の声を挙げて迫る。盛庸の軍が火器を電光のように発し、毒矢を雨(あめ)霰(あられ)とそそげば、燕軍の兵は皆傷ついて倒れる。また平安の軍が駆け付ける。庸はここにおいて兵を指揮して大いに戦う。燕王は精騎を率いて左翼を突く。左翼は動揺すること無く、王は入ることが出来ない。転じて中堅を突く、庸は軍を開いて王の入るのに任せ、急遽閉じてこれを囲む。燕王は奮戦甚だ努めるが出ることが出来ない。殆んど捕虜となろうとする。朱能・周長等がこれを見て、韃靼の騎兵を放って庸軍の東北の角(かど)を撃つ。庸がこれを防がせると、囲みがややゆるむ。能が突入して死戦し王を助け出す。張玉もまた王を救おうとして、王が既に出たとも知らずに庸の陣に突入し、縦横に奮戦してついに悪戦苦闘して死ぬ。皇軍は勝ちに乗じて捕獲すること万余人、燕軍は大いに敗れて敗走する。庸は兵を放ってこれを追い殺傷する者甚だ多い。この戦いに於いて燕王はしばしば危(あやう)かったが、皇軍の諸将は帝の「朕に叔父殺しの名を与えないようにせよ」との詔(みことのり)を守って燕王に刃(やいば)を加えず、燕王もまたこれを知る。燕王は騎射に勝れ、追う兵は燕王をあえて斬らないので、燕王に打ち殺される兵は多い。たまたま高煦が華聚(かしゅう)等を率いてやって来て、追う兵を撃退して去る。

 燕王は張玉の死を聞いて痛哭(つうこく)し、諸将と語るたびに東昌のことに及ぶと、「張玉を失って以来、吾は安心して寝食が出来ない」と云って涙を流して止まない。諸将も皆泣く。後に功臣を賞する際には張玉を第一等とし、河東王に追封する。

 初め燕王の軍が出陣する時に、道衍は、「軍は行けば必ず勝ちましょう、ただ両日を要するだけです。」と云う。東昌から還ると、多くの精鋭を失い張玉を失ったことで、王の思いはともすれば休むことを望む。道衍は云う、「両日とは昌の事です。東昌のことは終りました。これからは全勝あるのみです」と。ますます兵士を募って勢いを鼓舞する。建文三年二月、燕王は自ら文を作り、涙を流して、戦死した張玉等を祭り、着ていた袍衣(ほうい)を脱いでこれを焼いて、亡者に着せる意(おもい)を示して云う、「それ一糸と云えども吾が心と知れ」と。将士の父兄子弟は、これを見て皆感泣して、王のために死ぬことを願う。

 燕王はついにまた軍を率いて出陣する。諸将士を諭して云う、「戦いの道は、死を恐れる者は必ず死に、生を捨てる者は必ず生きる、汝等(なんじら)努力せよ」と。三月、盛庸軍と夾(河きょうか)で遇う。燕軍の将の譚淵(たんえん)や董中峰(とうちゅうほう)等は皇軍の将の荘得(そうとく)と戦って死に、皇軍もまた荘得・楚知(そち)・張皂旗(ちょうそうき)等を失う。日が暮れて各々兵を収めて陣に還る。燕王は十余騎を引連れて庸の陣に迫り野営する。天明るく四面は皆敵である。王は従容として去る。庸の諸将は驚き互いに顔を見合わせるが、天子の詔に「朕に叔父殺しの汚名を着せるなかれ」と有るので、矢を放つことを敢えてしない。この日また戦う、辰(たつ)の刻から未(ひつじ)の刻に亘って両軍互いに勝ち互いに負ける。急に東北の風が大いに起こって砂礫が顔面を撃つ。皇軍は逆風に対し、燕軍は追い風に乗じる。燕軍は鬨(とき)の声を挙げて吶喊(とっかん)し、庸の軍は支えきれずに大敗して逃げ去る。燕王は戦い止んで陣に還るが、満面は塵土(じんど)にまみれ、諸将も燕王であることが分からない、声を聞いて王であることを悟ったと云う。燕王が黄塵の空に漲(みなぎ)る中を奔走馳駆し、𠮟咤号令した状(さま)を察することができる。

 呉傑と平安は盛庸の軍を助けようとして真定から兵を率いて出陣したが、八十里手前で盛庸軍が敗れたことを知って引き返した。燕王は真定が攻め難いので、「燕軍は四方に兵を出して糧食を使い果たし、陣中には備えが無い」と触れ回らせて、傑等を誘い出す。傑等はこれを信じてついに滹沱河に出る。王は河を渡り流れに沿って行くこと二十里、傑の軍と藁城(こうじょう)で遇う。実に閏三月巳亥の日のことである。翌日、両軍は大いに戦う。燕軍の将の薛祿(せつろく)は奮戦甚だ努める。燕王は精鋭を率いて傑の軍に突入し、大呼して猛撃を加える。傑の軍は雨(あめ)霰(あられ)と矢を飛ばす、王の旗は多くの矢でハリネズミのようにされ、燕軍は多く傷つく。しかるに王はなおも屈せず、いよいよ突撃をくり返す。偶々(たまたま)またも暴風が起こり、樹を抜き屋根を翻(ひるがえ)す。燕軍はこれに乗じ、傑等は大いに破れる。燕王は追撃して真定の城下に入り、驍将の鄧戩(とうせん)や陳鵰(ちんちょう)等を捕虜にして、斬首六万余級と軍資機械の悉(ことごと)くを得る。王はその旗を北平に送って、世子の高熾に諭して云う、「大切に所蔵し、後世も忘れることの無いようにせよ」と。旗は高熾のもとに届く。その時その場に居合わせた降将の顧成がこれを見る。成は操舟を職業とする者からの出である。 体躯雄大で力は絶倫、満身の入れ墨は人を驚かし、自(おの)ずと他と異なる。太祖に従って常に随行し、かつて太祖に従って出た時に、巨舟が砂に阻まれ動かないので、成が舟を背負って行ったことがある。鎮江の戦いで捕らえられて縄をかけられると、勇躍して縄を断ち切り、刀を持っている者を殺して脱走して帰ると、直ちに衆を導いて城を落としたことがある。勇力の程を察することが出来る。後に戦功を積んで累進し、将となって蜀を征伐し、雲南を征伐し、諸方の蛮族を平定し、勇名を世に轟かす。建文元年、耿炳文に従って燕軍と戦う。炳文が敗れて成は捕らえられる。燕王は自らその縄を解いて云う、「太祖の霊が汝を我に授(さずけ)られた」と。そして挙兵の理由を語る。成は感激して心を変えて、ついに世子の高熾を助けて北平を守る。しかしながら、多くは作戦を考えることに当たり、ついに将として戦うことを承知せず、兵器を賜っても受けない。思うに中年以降の読書によって得たものがあったのであろう。これまた一種の人である。後に世子の高熾が小人(しょうじん)共に苦しめられた時に告げて云う、「殿下はただまさに誠を尽し、父母を敬い孝に励み、一生懸命、民を恵みたまうだけであります。万事は天に在ります。小人は意を措くに足りません」と。識見もまた高いと云える。成はこのような人である。旗を見るや、その壮絶なことを悼み悲しんで涙を流して云う、「臣は若年より軍に従い今や老いましが、また先陣を踏んだことも多いのですが、未だこのようなものは見たことがありません」と。「水滸伝」中の豪傑のような成にこのような言葉を云わせる。燕王もまた苦戦したと云えよう。そして燕王が豪傑の心を捉えるのは、実に王の勇往邁進して艱難危険をものともしない、この雄々しい姿にあると云えよう。

 四月、燕兵は大名に留まる。王は斎泰と黄子澄が解任されたことを聞くと上書して、呉傑・盛庸・平安等の撤退を求め、それで無ければ兵は撤収しないと云う。それに対し帝は大理寺少卿の薛嵓(せつがん)を派遣して、燕王及び諸将士の罪を赦し、本国に帰還させることを詔(みことのり)して燕軍に撤収を勧めて、その後を大軍を以って付けさせようとする。嵓は燕王に会うと、却って燕王の機略と威武に圧倒され、帰り戻ると、燕王の言葉は正直で誠意があると云って、「天子が奸臣を罰し軍を撤収されるならば、単騎で陛下の許に参上する」と云う燕王の言葉を伝える。帝は方孝孺と語って、「真(まこと)に嵓の言の通りであれば、斎と黄は朕を誤らせるものである」と云う。孝孺はこれを疑い、「嵓は燕王に騙されて言っているのです」と云う。五月、呉傑と平安は出兵して北平の補給路を断つ。燕王は指揮の武勝を派遣して上書して、「朝廷が前(さき)の詔(みことのり)で燕軍の撤収を赦しながら、今出兵して補給路を断ち北を攻めるのは矛盾である」と云う。帝は書を受けて兵を収めようかと思い、方孝孺に語って、「燕王は吾が父孝康皇帝の同母の弟である。朕の叔父である。朕は将来、宗廟の御霊(みたま)に見(まみ)えられない。」と云う。孝孺は、「兵は一度解散すれば急に集めることは困難です。燕が長躯(ちょうく)して京城(けいじょう)を襲えば、どのようにこれを防ぎますか、陛下、迷われ給うな」と云う。そこで使者の武勝を錦衣の獄に入れる。燕王はこれを聞いて大いに怒る。孝孺の言は当然である。そして建文帝の情もまた敦(あつ)いと云える。結局両者は戦い合い、調停は極めて難しい。昔、女媧(じょか)は天が崩れそうになった時に、五色の石を錬って修復したと云うが、今になって戦火の惨劇(さんげき)を除こうとしても、聖手に五色の石が無くては、これを錬ることも難しい。

 この月、燕王は指揮の李遠(りえん)を軽騎六千を率いて徐沛(じょはい)に派遣し、皇軍の資糧を焼かせる。李遠は丘福と薛禄と画策し、能く効果を上げて、糧船数万艘と食糧数百万を焼く。軍資と器械は共に灰燼となり河水は熱する。都はこれを聞いて大いに驚き震える。

 七月、平安は兵を率いて真定から北平に着き、平村(へいそん)に陣営を張る。平村は城から五十里の地であり、燕王の世子は危難を告げる。燕王は劉江を呼んで策を問う。劉江は兵を率いて滹沱河を渡り、旗幟を張り、烽火を挙げて、大いに軍容を壮んにして平安と戦う。平安の軍は敗れて、平安は真定に敗走する。

 方孝孺の門人の林嘉猷(りんかゆう)は、謀(はかりごと)を用いて燕王父子を離間させようとする。謀は実行されずに終わる。

 盛庸等は大同の守将の房昭に檄(げき)を飛ばし、兵を率いて紫荊関(しけいかん)に入り、保定(ほてい)の諸県を攻略し、兵を易州(えきしゅう)の西水寨(せいすいさい)に留め、天険を頼りに持久戦に持ち込んで北平の動きを牽制しようとする。燕王はこれを聞いて、保定を奪われては北平が危ういとして、ついに命令を下して軍を返す。八月から九月にかけて燕軍は西水寨を攻め、十月には真定の援兵を破り、あわせて西水寨を破る。房昭は敗走し逃れる。

 十一月、駙馬都尉(ふばとい)の梅殷(ばいいん)に淮安を鎮守させる。殷は太祖の娘の寧国公主の夫である。太祖が崩じようとする時、その側(かたわら)に控えて臨終のお言葉を聞いた者は、実に帝と殷である。太祖は殷を顧みて、「汝(なんじ)は老成で忠信である、汝に幼主を託すぞ」と語られて、誓書と遺詔を出して授けられ、「敢えて天に違(たが)う者があれば朕のために之を伐(う)て」と云い終るや崩御されたのである。燕の勢いが次第に大きくなって来ると、諸将は様子見をする者が多い。淮南の民を募りこれに軍士を合わせ四十万として、殷に命じてこれを率いて淮上に留まって燕軍を阻止させようとする。燕王はこれを聞いて殷に書を送り、孝陵(太祖の墓陵)の墓参のため金陵(後の南京)に向かうと云う。殷は答えて云う、「孝陵への墓参は、皇考(太祖)の禁じるところであり、これに順う者は孝行者、順わない者は不幸者である」として、使者の耳と鼻を裂き、厳しい言葉で排斥する。燕王の怒ること甚だしい。

 燕王が挙兵してから早や三年、永平・大寧・保定を獲得し、戦いに勝ってはいるが皇軍の出没はやまない。獲得してもまた奪還されることが多く、死傷する者も少なくない。ここにおいて燕王は歎息して、「数年絶え間なく戦うが何時終わるのか、将(まさ)に長江に臨んで勝負を決して、二度と繰り返えしの無いようにしよう」と云う。当時、朝廷の内臣等の中に、帝の厳しさを怨んで燕王を担ごうとする者が居て、金陵の手薄なことを告げて、隙に乗じて攻撃することを勧める。燕王はついに決意して、十二月になって北平を出る。

 四年正月、燕の先鋒李遠は徳州の副将葛進を滹沱河で破り、朱能もまた平安の将の賈栄(かえい)等を衡水(こうすい)で破ってこれを擒(とりこ)にする。そこで燕王は館陶から渡って東阿(とうあ)を攻め、汶上を攻め、沛県(ぱいけん)を攻めてこれを攻略し、ついに徐州に進み、城兵を脅して城から出られないようにして南行し、三月には宿州に着き、平安が騎兵と歩兵四万で追跡して来たのを淝河(ひか)で破り、平安の旗下の番将ホルツイを捕虜にする。この戦いでホルツイは矛を執って燕王に迫る。その距離わずかに十歩ばかり、童信(どうしん)が矢を放って馬を討つ、馬が倒れて王は逃れ、ホルツイは捕らえられる。王はホルツイを赦(ゆる)し、その夜の警備に就かせる。諸将がこれを危うんで言上するが王は聴かない。次いで蕭県を攻略し淮河(わいが)の守備を破る。四月、平安軍は小河(しょうか)に宿営し、燕兵は河北に構える。総兵の何福(かふく)は奮撃して燕将の陳文を斬り、平安は勇戦して燕将の王真を囲む。王真はその身に十数個所の傷を受けて、自ら馬上で首を刎ねる。平安いよいよ迫り燕王と北坂で遇う。平安の矛は殆んど燕王に及ぶ。燕の番騎指揮の王騏(おうき)が馬を躍らせ突入し王は危うく危機を脱する。燕将の張武が悪戦して敵を退却させたが燕軍はついに勝つことが出来なかった。

 ここにおいて皇軍は橋南(きょうなん)に留まり、燕軍は橋北(きょうほく)に留まり、対峙すること数日、皇軍は糧食が尽きたのでカブを採って食らう。燕王云う、「今、皇軍は飢えている。後(あと)一二日して糧食が届いてからでは破ることが難しくなろう」と。そこで兵千余を留めて城の守りとし、密かに軍を動かして夜半に河を渡らせ、迂回して敵の背後に出る。その時、徐輝祖の軍が来る。大いに齊眉山(せいびざん)で戦う。午(うま)の刻から酉(とり)の刻まで、勝負を争い燕は勇将の李斌(りびん)を失う。燕はついにまたも勝つことが出来ない。皇軍は再び勝って大いに振るい、燕は陳文・王真・韓貴(かんき)・李斌を失い諸将は皆恐れる。燕王に説いて云う、「軍は深く入り過ぎました。暑い雨が連綿と降って淮土(わいど)は湿気で蒸し、病気の者が次第に増えています。小河の東は平野で牛や羊が多く麦も今まさに熟そうとしています。ここは一旦撤退し、河を渡り地を選んで兵馬を休ませ、隙をついて動くべきです」と。燕王云う、「軍事は進有って退無し。勝勢であるのに再び河を渡って撤退しては、将士の統一は崩れよう、公等の見解は委縮している」とし、そして命令を下して云う、「北に渡る者は左に寄れ、北に渡らない者は右に寄れ」と。諸将の多くが左に寄る。王は怒って云う、「公等、勝手にせよ」と。この時の燕軍の勢いは実に余裕なく、将(まさ)に崩れようとする危(あやう)い状態であり、孤軍長躯して深く適地に入ったため、前後左右は皆敵である。北平は遥かに遠く、しかも周囲は皆敵、燕軍は戦って勝てばよいが、勝てなければ援軍は無く、当面の敵である何福の軍は兵多く力戦し、徐輝祖は堅実で隙なく、平安は驍勇で奇手を出す。我が軍が再戦して再び負けて猛将の多くを失うことを、諸兵は皆恐れる。戦おうとしても力が足りず、撤退すれば戦果は水泡に帰し、形勢の不利が露(あら)わになる。将卒を強いて戦わせれば、人心は乖離(かいり)して不測の事態が生じるかも知れない。諸将が争うように左に寄るのを見て、王の怒るのも無理は無い。このような状況で退却は不可である。燕王は皆の意見を聞かず、敢然と奮戦しようとする。その機を見るに明るく事を決するに勇気ある、実にコレ豪傑の気象、鉄石の心腸(しんちょう)を現すものでなくて何であろう。その時座中に朱能がいた。朱能は初めから張玉と共に王の左右となって付き従う。諸将の中では最も年が若いが常に善戦有効、人が敬服するほどの者で、身長八尺、年齢三十五、勇気快活、交友敦厚の人である。慨然として席を立ち、剣を突いて右の衆に向って云う、「諸君、お願いである。頑張ろうではないか。昔、漢高は十度戦って九度敗れたがついに天下を取った。今、挙兵してから連勝してきたものを少しの挫折で帰っては、どうしてこの後(のち)、大王に仕えることが出来よう。諸君は勇剛誠実の人、撤退心を持ってはいけない。」と云えば、諸将は互いに顔を見合せ、敢えて反論する者は無い。ここにおいて全軍は心機一転し、王と生死を共にすることに決する。朱能が後に龍州に死んだ時に東平王に追封されたのも当然のことではないか。

 一時、燕軍は勢い上らず、王が鎧を脱がないこと数日に及んだが、ここにおいて将士の心は一致し、兵気が善変したのに反し、皇軍は再戦するといえども兵気は悪変した。天意と云おうか、時運と云おうか、燕軍の再び敗れたことが朝廷に伝わると、廷臣の中に、「燕は北へ還るでありましょう。今は都が無防備であります。都に良将が必要であります。」と云う者がいて、朝議の結果、徐輝祖を召還したまう。輝祖が仕方なく都に還ると、何福の軍は勢いが殺(そ)げて満足に戦えない状況になる。加えて皇軍は燕軍の突撃に備えて塹壕を掘り、防禦の壁を築いて陣地を整えることを常にしているので、軍兵は休息をとる暇が少なく、常々人力を労使する嫌いがあり、士卒には疲労困憊退屈の情(おもい)があった。燕王の軍は塹壕を造らず、ただ隊伍を分けて布陣し、陣を列ねて門とする。そのため将士は陣に入ると直ぐ休息することが出来て、余裕があれば燕王は射猟をして地勢を見て廻り、獲物があれば将士に分ち、敵陣を破る度に獲得したところの財物を蓄える。皇軍と燕軍の軍情はこのように異なる。一方は労役に苦しみ、一方は用を楽しむ、この差が勝敗に影響しないことはない。

 このように対峙する中に、皇軍に糧食が大いに届くとの情報があった、燕王は悦んで云う、「敵は必ず兵を分けてこれを取るであろう、その兵が分れて弱勢になったところに乗じてこれを襲えば、どうして支えることが出来よう。」と、朱栄や劉江等を派遣して、軽騎を率いて補給路を断たせ、また遊騎を放って薪(たきぎ)とりを妨害させる。そのため何福は陣を霊壁に移す。皇軍の糧食は五万、平安が兵馬六万を率いてこれを守り、糧食を運ぶ者を中に居らせる。燕王は総べての壮士を分けて敵の援兵を遮断させ、子の高煦の兵を林間に伏せさせ、敵が戦いに疲れたところを討てと命じ、自ら軍を率いて迎えて戦うために騎兵を両翼に置く。平安が軍を率いて突撃し燕兵千余を殺したが、王が歩兵の軍勢を引き寄せてこれを攻撃し陣列を二ツに分断すると、皇軍はついに乱れる。何福等はこれを見て平安と共に攻撃し、燕兵数千を殺してこれを退却させたが、高煦は皇軍の疲れたのを見て林間から突出し、新手(あらて)の勢いでもって攻撃を加え、王もまた兵を返して襲い掛かった。ここにおいて皇軍は大いに敗れ、殺傷される者一万余人、馬三千余匹を失い、糧食の総べてを燕軍に奪われる。

 何福等は残兵を率いて陣に帰り門を閉じて守りを固めた。福はこの夜命令を下して、「明日、砲声が三度するのを聞いたら囲みを突破して出て、糧食を奪取するために淮河を目指せ」と指示した。であるのに、何とこれも天命か、その翌日燕軍は霊壁の陣を攻めるに当って兵が三度、砲を放った。皇軍はこれを我が軍が放った合図の砲と誤って門に殺到したが、もとより合図の砲では無いので、門が塞(ふさ)がっている。先頭は出られず、後続は続々と押し寄せる。陣中ごった返して人馬は転がる。燕兵が急襲してこれを討ち、ついに陣をやぶり、襲撃と包囲は共に敏捷を極める。皇軍はここに至って大敗し、収拾がつかない。宗垣(そうえん)・陳性善(ちんせいぜん)・彭与明(ぼうよめい)は死に、何福は逃れ去り、陳暉・平安・馬溥・徐真・孫晟(そんせい)・王貴等は皆捕らえられる。平安が捕虜になると燕の軍中はドヨメキ、歓呼してやまない。我等これで安心と云って、争って平安を殺すことを願う。平安がしばしば燕兵を破り、勇将を斬ること数人に及んだためである。燕王は平安の勇材を惜しんでその願いを許さず、平安に問う、「淝河の戦いで公の馬が躓(つまず)かなければ、吾をどのようにしたか」と。平安云う、「殿下を刺すことなど、朽木(くちき)をへし折るようでしたろう」と。王は歎息して云う、「太祖は好い壮士を育てられた」と。勇卒を選んで平安を北平に送り、世子によくこれを見させる。平安はその後永楽七年になって自殺する。平安等を失って皇軍は大いに衰える。黄子澄は霊壁の敗戦を聞いて胸をかきむしり、慟哭して云う、「勝敗は決す、吾(われ)が万死をもってしても国を誤った罪を償うことは出来ない」と。

 五月、燕軍は泗州(ししゅう)に着く。守将の周景初(しゅうけいしょ)は降伏する。燕軍は前進して淮河(わいが)に着く。盛庸は淮河の南岸を守っていたが防戦叶わず、戦艦は全て燕軍の奪うところとなり、盱眙(くい)は陥落する。燕王は諸将を集め今後の進路を問う。燕王は諸将の策を斥けて、ただちに楊州を目指す。楊州の守将の王礼(おうれい)と弟の王宗(おうそう)は、監察御史の王涁(おうしん)を縛って門を開いて降伏する。高郵(こうゆう)・通泰(つうたい)・儀真(ぎしん)の諸域もまた皆降伏し、燕軍の艦船が河に往来し、天地は燕軍の軍旗や太鼓で蔽われる。朝廷の大臣には自ら戦い抜く策を立てて、再び起って争おうとする者は無い。方孝孺は領地を燕に割譲することで敵軍の動きを抑え、東南地方からの募集兵の到着を待とうとする。そこで、燕王の従姉である慶城郡主(けいじょうぐんしゅしゅ)を派遣して和議を提案する。燕王はこれを拒否して、「皇考(太祖)が分ち賜える吾が領地も保てなくなろうとするのに、今さら領地を譲り受けてどうしよう、吾はただ奸臣を捕らえた後に、孝陵に参謁するのみである」と云う。

 六月、燕軍は浦子口(ほしこう)に着く。盛庸等がこれを破る。帝は都督僉事(ととくせんじ)の陳瑄(ちんせん)を派遣して、船を率いて盛庸を救援させようとするが、陳瑄は却って船ごと燕に降伏する。燕王は長江の神を祭って戦勝を誓願し、長江を渡る。舳先(へさき)や艫(とも)がぶつかり合うようにして、大船団が金鼓を轟かせて襲って来る。盛庸等は海船に兵を並べていたが、皆大いに驚く。燕王は諸将を指揮して、鼓を鳴らして先陣を切る。盛庸の軍は壊滅し、海船は皆燕軍の獲得するところとなる。鎮江(ちんこう)の守将の童俊(どうしゅん)は敵わないと見て燕に降伏する。帝は長江の海船が敵のものになり、鎮江などの諸城も皆降伏したのを聞いて、憂慮して方策を方孝孺に問う。孝孺は民をかり集めて城に入れ、諸王に門を守らせる。李景隆等が燕王と会見して領土の割譲を申し出るが、王は応じない。事態はイヨイヨ切迫する。群臣は帝に浙(せつ)の地か或いは湖湘(こしょう)の地に遷(うつ)られることを勧める。方孝孺は堅く京城を守って勤王の軍勢の到着を待ち、事態急変の時は車駕で蜀の地に遷られて再挙されることを願う。齊泰は広州や徳州に奔り黄子澄は蘇州に奔って、徴兵を促す。思うに、二人に実務の才が無いためか、兵を得る事は出来なかった。子澄は海を渡って兵を外洋に求めようとして果たせなかった。燕将の劉保や華聚等はついに朝陽門に着いて、備えの無いことを確認して帰って報告する。燕王は大いに喜び、軍を整えて進む。金川門(きんせんもん)に到着する。谷王の橞と李景隆が金川門を守っていたが、燕兵が来ると門を開いて降伏する。魏国候の徐輝祖は降伏せずに軍を率いて迎えて戦うが勝つこと成らず、朝廷の文官武官のことごとくは降伏して燕王を迎える。(④につづく)


注解
・大樹将軍:中国・後漢の馮異という将軍は、諸将が軍功を論ずる時、必ずひとり大樹の下に退いて、功を誇ることがなかったという。
・一門:一族、親族。
・張士誠:元末に蜂起した群雄の一人。平江路を拠点として江東に強大な勢力を誇ったが、朱元璋によって滅ぼされた。
・遼東鎮守:遼東方面の防衛にあたった防衛軍の長官。遼東防衛長官。
・都指揮使:前出。
・蘇東坡:中国・北宋の政治家で文人、詩文・絵画にすぐれた唐宋八大家の一人。
・懐良王:後醍醐天皇の皇子。九州に派遣され南朝の征西大将軍として肥後(熊本県)を拠点に九州における南朝方の全盛期を築いた。
・倭寇:朝鮮半島や中国沿岸を荒した倭人(日本人)が主体の海賊。
・左軍都督府事:中央軍事組織において左軍(浙江・遼東・山東方面軍)の都督府(軍司令部)所属の司法官。左軍都督府司法官。
・周礼:中国・周の「礼」即ち文物・習俗・政治制度・官位制度について記されたもの。
・監察御史:前出。
・世子:前出。
・寧王を引連れて関に入る:進路を変えて寧王府に寄り寧王を説得して仲間に引き入れる。
・都督:前出。
・降将:降伏した敵将。
・太子太師:皇太子の輔導職。
・周公は流言を聞いて:周の武王の弟の周公は、武王が死ぬと幼い成王の摂政に就いて周の安定を図った。国が安定すると皇帝への野心を疑う流言を聞くと魯の国に帰り王朝を離れた。
・韃靼からの援兵:明に追われ北方に逃れた元の遺民を明では韃靼とよんでいたが、その韃靼の援兵。
・山東参政:山東地方の行政を担当する布政司の次官。山東省布政司次官。
・左都督:都督府の長官。
・右都督:都督府の副長官。
・山東布政使:山東布政司の長官。山東布政司長官。
・神牌:神様の名を書いた板。ここでは太祖の名を書いた板。
・兵部尚書:前出。
・大理少卿:最高裁判所に当たる大理寺の次官。大理寺次官。
・指揮:衛所や護衛所の将官。衛所将官。
・女媧:中国の古代神話に登場する女神。天を支えていた柱が折れた時に五色に輝く石を溶かして欠けた部分に流し込みこれを補った。「淮南子」。
・駙馬都尉:公主(太祖の娘)の夫の位。
・番将:漢人以外の異人の将校。蛮人将校。
・総兵:国境の防衛に際して衛所の兵や王府の護衛兵を率いた将官、都督府の都督がこれに当たった。総兵官。
・番騎指揮:漢人以外の異人の騎馬将校。(蛮人騎馬将校)。
・午の刻から酉の刻まで:正午ごろから夕刻六時ごろまで。
・監察御史:前出。
・都督僉事:都督府の事務官。都督府事務官。



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