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幸田露伴の随筆「潮待ち草40・41」

四十 銭範
 詩を作るのに、起句は正にこのようにあるべき、承句は正にこのようにあるべき、転句は正にこのようにあるべきと云い、抒情詩は正にこのように作るべき、叙事詩は正にこのように作るべき、劇の詩は正にこのように作るべきと云って、自分が予(あらかじ)め想っている通りに詩を作るようなことは古人の為さないところであった。今の人はともすれば詩を作るのに銭を鋳(い)るようにする。胸中にマズ一ツの範型を用意して、その範型に随おうとする。起承転結の句法は必ずこのようであるべき、抒情詩や叙事詩や劇詩はこのようで無くてはならないと思っている。これは内を棄てて外に就き、真を去って偽に走り、実を忘れて名を求めるもので、自らを卑しくするというものだ。その銭は万個万々個であっても、本(もと)は必ず同じである、同じでなくてはならない。それなので、之を鋳るには範型を必要とする。詩の本(もと)はそうではない、すでに一人の杜甫が在れば、世にもう一人の杜甫は必要ない。すでに一人の李白が在れば、世にもう一人の李白は必要ない。ミラーは野口氏に語って、「世は二人のゲーテを必要としない、二人のシェクスピアを必要としない」と云った。確かな言葉といえる。詩の本(もと)は万篇万々篇必ず同じであってはならない、何を苦しんで敢えて範型を設けて、自分の内を棄てて、自分の真を離れて、自分の実を忘れて、役人の示す作例に従順に従って、之に背くのを恐れるようにするのか。古人は詩を雲が大空で伸び縮みするように作る、初めから何らかの形にしようとの意(おもい)は無く、自然に生まれる妙好の詩を作るだけある。また初めから人に示そうとの意は無く、自然に目にした者に、悦んで之を観て楽しませればよいのである。胸中に何も無い状態で、最初からマズ自分で考えて、小説は必ずこのようであるべし、このようでなくてはならない。詩は必ずこのようであるべし、このようでなくてはならないと決めつけ、そうした後で、小説を作り詩を作るようなことは、実に後人の悪賢く人情の無い気象で、純朴で人情に厚い気風のないことも甚だしい。これでは外面を飾り技巧に走り名を求めて詩を鋳るのであり、詩を作るとは云えない。その範型はいよいよ精密になり、詩はただ語句の音律だけとなり、人の感覚をいたずらに麻痺させて久しい。今の好んで人の師となる者は、西洋の詩の体裁を説き種類を論じて、ともすれば範型を与えて詩を作ろうとする青年に之を示して、これに随わせようとする。詩に臨んで銭を鋳る方法を用いようとする、誤解するのもまた甚だしいではないか。

注解
・ミラー:ウォーキン・ミラー、アメリカの詩人。
・野口氏:野口米次郎、明治・大正・昭和前期の英詩人で小説家。ミラーを日本に紹介した。

四十一 孟浩然
 詩人が詩題を選ぶのは詩人の最大自由である。現実の世界の相(そう・ありさま)を選び取って之を詩中の相とするのも、これまた詩人の最大自由である。浩然は生まれながらの詩人である。王子源はその詩集に序して、「学問は儒学を学ばず、努めて文章を綴り、過去の文学にとらわれず、独自の文には独特の妙あり。」と云う。真(まこと)によくその人とその詩を表して尽したと云える。今年、風冷えて虫の鳴く夜に、たまたま灯の下で「襄陽集(じょうようしゅう)」を読み、詩情と実境が交々(こもごも)応じ合い、甚だ優れているのを感じて、恍惚として彼が今を去る千年前の人であることを忘れる。かつその甚だ多くない詩の中に釣魚の事を詠じた詩の少なくないのに見て、浩然が釣魚の趣味を理解する人で、思うに或いは私と同じ趣味を持つ者ではないか、でなければ、僅か数十紙の集中にこれほど多くの釣魚の詩が有るハズが無いと思い、破顔微笑するのを免れなかった。
 「耶谿(やけい)に舟を浮かべる」の詩に、「釣りを垂らす白首(はくしゅ)の翁、紗(しゃ)を浣(あら)う新妝(しんそう)の女。(釣りを垂らす白髪の翁、絹布を洗う化粧したての女)」の一句があり、「万山の潭(たん)」の吟に、「釣りを垂らして盤石に坐し、水清く心また閒(しずか)なり。」句がある。「気は蒸す雲夢(うんぽう)の沢(たく)、波は撼(ゆる)がす岳陽の城。(蒸気が立ち昇る雲夢の沢、波は撼がす岳陽の町)」の一篇で有名な「洞庭に臨む」の詩の末二句は、「坐(そぞろ)に垂釣者を観れば、徒(いたずら)に羨魚の情有り。(坐に垂釣者を観れば、徒に魚を欲するの情あり)」とあるのである。「竹岐(ちくき・竹の間)に釣を垂らすを見、茅斎(ぼうさい・茅屋の書斎)に書を読むを聞く。」は「西山に辛諤(しんがく)を尋ねるの詩」の中の句である。「閑にして太公は釣を垂れ、興じて子猷は船を発す。」は「呉張二子の檀渓の別業(別荘)を過(よぎ)る」の詩の中の句である。「試に竹竿を垂らして釣り、果して査頭鯿(さとうへん)を得る。」の一句は「峴潭(けんたん)の作」にある。「今日溟漲(めいちょう)を観て、綸(いと)を垂らして鼇(ごう)を釣らんと欲す。(今日上げ潮を観て、釣糸を垂らして大亀を釣らんと欲す)」は、「薛(せつ)司戸と与(とも)に樟亭楼に登る」の詩の句である。「琴を抱き来て酔を取り、釣を垂れて坐(そぞろ)に閑(かん)に乗ずる。」は、「李十四の荘に題する」の句ではないか。「虚舟(きょしゅう)の適(ゆ)く所に任(まか)せ、釣を垂れて待つ非有(あらず)。(空舟の行く所に任せ、釣糸を垂れて待つあらず)」は、「歳慕(さいぼ・年末)海上の作」の句ではないか。「七里灘を経て」の詩には、「釣磯(ちょうき)は平らかにして坐すに可(よ)く、苔磴(たいとう)は滑(すべ)らかにして歩み難(がた)し。(釣場の磯は平らで坐すに可く、苔の石段は滑らかで歩み難い)」の句がある。高陽池に朱二を送るの詩に、「当(まさ)に昔 襄陽雄盛の時、山公は常に習家の池に酔う、池辺の釣女は日に相い随い、妝(そう)を成し水に照し 人近づいて窺う、紅波澹々(たんたん)として芙蓉発(ひら)き、緑岸毿々(さんさん)として楊柳垂れる。(まさに昔、襄陽が雄盛の時、山公は常に高陽池で酔う、池辺の釣女は日々に随い、化粧を成して水に近づいて映し窺う、紅波は沮々として芙蓉は開き、緑岸は毿々として楊柳は垂れる)」とあるのは、徳川時代の岐阜屋にも増した優麗豪華な釣園(つりぞの)のようで、まさかそれほどでも無いだろうがと、特に可笑しく、また釣女の二字も珍しく、変わっている。「釣竿を北㵎(ほくかん)に垂らし、樵(しょう)を唱って南軒(なんけん)に入る。(釣竿を北の谷川に垂らし、きこり歌を唱って別荘に入る)」は谷川のほとりでの即興の句である。僅か数十紙に過ぎない「襄陽集」の中に何と釣魚に関する詩の多いことか。浩然は思うに釣りの興趣が解って、そして自然とこのように釣魚の事を多く言ったものか。はたまた私が釣りの趣味に熱中する余りに、たまたま推測して浩然を張志和や陸亀蒙の同類としたものか、否か。

注解
・孟浩然:中国・唐の詩人。襄州襄陽県の人。
・王子源:「孟浩然詩集(襄陽集)」序文の筆者。
・耶谿:中国・紹興にある若耶谿のこと。美人の西施が絹を洗ったと云われる石がある。
・万山の潭:襄陽の西北にある万山の麓を流れる川の淵。
・雲夢の沢:洞庭湖の北にあった沼沢地。
・太公:太公望呂尚のこと。
・子猷:王羲之の子の王徽子のこと。
・査頭鯿:鯉科の魚。東晋の習鑿歯「襄陽耆旧記」巻三に、「峴潭下の漢水の中、鯿魚(へんぎょ)多く肥美なり、嘗て人が採捕するのを禁じて査頭(さとう・筏)を用いて水を断つ。これを査頭鯿と云う。」とある。
・薛司戸:戸籍を扱う役職の薛と云う人。
・七里灘:中国・浙江省にある渓谷。
・山公:山簡、字は季倫、山公は号、襄陽県の長官。
・徳川時代の岐阜屋:江戸に在った釣り堀屋。
・張志和:中国・唐の詩人。
・陸亀蒙:中国・唐の詩人。


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