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幸田露伴の小説「プラクリチ①」

プラクリチ

 恋愛は破壊をつかさどるものである。世界の安定と云うことや、個人の現状維持と云うことや、一家の平和と云うことなどそんな事は、或る所の或る時に恋愛の星のような小さな火が燃え出せば大なり小なりその辺り一帯は焼き立てられて破壊されてしまう。マズ第一に恋愛する人自身がそれまでの自分自身を破壊する。次には好い息子やおとなしい娘を持った親は息子を奪われ娘を奪われる。不良児や暴れ娘を持った親は孤独な立場に立たされたり落ちぶれたり、悲しい境遇に立たされることになる。名門華族が貧乏家族と繫がりを持たざるを得なく成ったり、お高く止まって澄まして居た者が、街中を汗まみれに走る廻る境遇の者と親類に成ったりする。賢明な血統で栄えた家が凡愚な血統の厭な家に成るかと思えば、残忍酷薄で大金持ちを誇った家がガラリと変わって清貧を楽しむ家に成ったりする。恋愛の成就や不成就に関わらず恋愛が始まりさえすれば、必ずそこに破壊作用が起きてドシドシ旧状や旧態を打ち砕き、一人一家を新しい風の前に吹きさらしにする。そしてこれ等が積り積もって一村一国一世界の安定を失わせて、進歩か退歩か何れにしても、動き出さずには居られないようになる。外から迫る生存競争などと云うものは人間にイヤイヤながら現状破壊をさせるが、内から発する恋愛は人間に勢い込んで鼻の頭に油を出させたり、眼の中に塩水を湛えさせたりして現状破壊を敢えて起こさせる。造物主の洒落た趣向の一ツはこの恋愛と云うことを人間に植え込んでおいたところにある。こうして人間は永久に、向上や落下や、飛んだり跳ねたり、デングリかえったり、「ひょっこりひょっこりの俵が四文」と云う昔のおもちゃ(起きあがり小法師 )のような七転び八起の生活を続けるのである。
 しかし恋愛はまた建設を掌るものでもある。恋愛の到達点が新しい生命を造り出すことは否定できない事実だから、恋愛は建設を掌るものと云っても間違いではない。イヤむしろ、恋愛は新しい建設に向って走っているものである。只々走ること、駿馬のように、めくら馬のように、じゃじゃ馬のように、道草食いのノラクラ馬が思い出し駆けするように、びっこ馬がショコタン駆けするように、いろいろ様々な駆け方をするのであるが何れも駆けることは駆ける。その駆けることで、埃を立て、土を蹴り、石を蹴り、あるいは畑を荒らして麦や粟を蹴り、あるいは泥水を跳ね飛ばして通行人を恐れ困らせ、あるいは花畑を突っ切って牡丹や芍薬を踏み散らしたりする。それが破壊ということに当たるのである。そのように解釈してよいのである。馬が走れば塵が騰がる。聖人賢者もコレをどうする事も出来ない。仕方ないことである。
 ところで世は永く人は多い。この造物主の洒落た趣向を見透(みす)かして、破壊と建設の二方面を共に辞退し、頭から恋愛を否定して、「そんなものはマッピラ御免、三毒の一ツである。」と毒物扱いしたのが釈迦である。もっとも釈迦以前から恋愛を妄執であると斥ける傾向がインドの人々の間では在ったであろうが、釈迦になって最も明白に恋愛を人間の妄執としてコレを弾呵(だんか・排斥)したのである。流石に釈迦は強い。反自然の旗印を敢然と立てたのである。であるのに、何という廻り合わせであろう、その旗印に向って小さな牝馬が突き進んで来て相当な破壊力を発揮したということは。これをモシ造物主の手下の何某(なにがし)が書き下ろした脚本の一ツだとすれば、実に細工の細かい、利かせどころの多い、感じさせ心に響く、状景ある脚本である。今はその何某が書き下ろした脚本を脚本通りに一ト通り目を通してみよう。
 話はコウである。釈迦の教えを信奉している阿難(あなん・アーナンダ)に対して、摩鄧迦(まとうか)の娘が恋を仕掛ける。阿難も一寸グラつく。しかし阿難は立ち直った。娘は自己を破壊して釈迦の門に入って仕舞う。娘の親も娘の親でなくなって仕舞う。と云うのが内容であって別におもしろいことも無いのであるが、サテいよいよその全体を細かに観ると、なかなか手の込んだ巧みさが織り込まれていて、世間一般の大味なものには無い何とも云えない幽かな味があって、人の心を惹き付けるのである。そこでソノ何とも云えない幽かな味がどのように醸し出されているかを看て取れば、なおさら自然の脚本が価値深く眺められるであろうと、仕なくてもよい饒舌(おしゃべり)を求められるままに敢えてしてみる。
 一体にこの話の話は、小乗部(小乗仏教)の経(経典)や律(規則)、それから密部(密教)に属し、あるいは方等部(大乗仏教)に属す経などに出ていることであるが、何と云ってもこの話を扱っている大物は首楞厳経(しゅりょうごんきょう)である。首楞厳経は一般にまとまりの無いゴタゴタした文が多いとされる仏教の中でも比較的に文章が好く、かつ又その所説もそれなりに面白いので尊ばれもし、愛されもしたもので、中国・明末清初の大官で学者で詩人であった銭牧斎(せんぼくさい)なども進んで注解を施したりした位である。僧では子璿(しえい)や暁月(ぎょうげつ)や仁岳(にんがく)が注釈をしている。通潤(つうじゅん)などと云う僧は一生を楞伽(りょうが)とこの経の注釈に費やして自ら二楞庵(にりょうあん)と名乗ったほど骨を折った。しかし、それ程の大きな経ではあり今でも禅では用いられているものであるが、少しウサン臭いところのあるもので、我が国では奈良時代にこの経が入って来ると直ぐに偽経であるという議論が学僧の間から起って、奈良の大安寺で焼却されようとしたもので、徳川時代に於いても曹洞宗の僧の面山瑞方(めんざんずいほう)には認められなかったものである。梵本(ぼんほん・原語のインドのサンスクリット語で書かれた経本)が支那(中国)に遺(のこ)っていないこと、訳本が宮中の内道場から伝写されて出て来たこと、懐迪(えてき)の訳本と云うものと房融筆受(ぼうゆうひつじゅ)の訳本と云うものが名は違うが実は同じこと等の、いろいろ疑わしいことがあるので、今でも承認しない人が在るが、それは文献の考証に任せることにして、アレコレあるとしても立派な大経ではあるので、マズは楞厳に随って語り出すとしよう。しかし、時教の判(じきょうのはん・諸経典の時期の判断)と云うものが在って、楞厳経を方等密呪部に入れている智旭(ちぎょく)のような人も在れば、これを法華経の後・涅槃経の前に入れて、諸小乗者(諸菩薩)がことごとく円通(悟り)の妙を証言しているので(二十五聖証円通の段)、醍醐味あること疑い無しとしている者も在る。後者の判断に従えば、この話の起こったのは仏が法華経を説いた後の事になる。これについては詳しく云えばいろいろ理屈があって、この事からして内容的に楞厳経を疑うことを生じかねないのだが、立ち入って今そんなことをアレコレ云うのは控えて、一体の事実によって、およそ波斯匿王(はしのくおう・プラセナージット)の失脚以前の事としておく。
 話は釈迦が憍薩羅国(コーサラ国・波斯匿王の国)の室羅伐悉底城(シラーバスチ城)の郊外の祇陀林(ぎだりん・元は波斯匿王の太子ジェタの所有園)の精舎に釈迦が居た時のことである。釈迦の教えは既に大いに行われていて、この国の王の波斯匿王や、その妃(きさき)の末利(マーリカ)や、その園を買って精舎を建てて仏に献上した長者の須達(シュッダッタ)や、その他有力有財善男善女の尊信を得て、烈日が中天に耀くような勢いを為(な)していた時だ。波斯匿王がその父の忌日に当ったので釈迦を自分の宮殿に招き、諸弟子等も同道させて供養しようとした。城中の諸長官等もこれと同時に釈迦の来宮を機会として、配下の弟子達までをも供養しようとしたので、つまり大会が城内で行われるものとなったのである。そこで釈迦は文殊(マンジュシェリー)に人々を宰領させ諸斎主に応じさせた。ところがこの時、俗縁から云えば釈迦の従弟(いとこ)で、道法から云えばもはや古参の弟子である阿難は別の招待を受けて他所(よそ)へ行っていたので、人々とは一緒に成れなかった。釈迦や人々が城内へ行って仕舞った後で帰って来た阿難は、その日は何もすることが無かった。そこで阿難は鉢多羅(はちたら)の略称である鉢と云う名で今通じている器を持って出掛け、門々(かどかど)を行乞(ぎょうこつ・托鉢)して回った。もちろん行乞は僧の常行(じょうぎょう・常の修行)であるから何の不思議も無いことであるが、ここで阿難は行乞するにあたってフと思ったのは、貴賤や浄穢(じょうえ)で区別しないで、どのような家からも施しを受けようとしたことだ。これも階級制度や意識が旺盛なインド社会に対して反抗していた仏教の一門徒として何の不思議も無いことであった。がしかし、これには一寸した事情があった。と云うのは、釈迦の高弟の須菩提(スプーチ)と大迦葉(マハーカーシヤパ)の二人の行乞の態度が釈迦の認めるところではなかったのを、阿難が見知っていたからである。須菩提は成道(じょうどう)した釈迦を最初に見たと云われる人で、山を出た釈迦に最初に見参してその弟子に成ったのは阿若憍陳如(カウンディニヤ)等の五人の比丘(びく・僧)であるが、これとは別に須菩提はひとり独自の禅行(ぜんぎょう)を行って精進苦行をしている時に、姿も見えない声を聞けない遠く離れた地で釈迦の成道を感知して、その道を学ぼうとした高明な人で、釈迦にその事を認められて、「最初に我を見た者は須菩提である」と云われたほどの優れた人である。その須菩提は解空(げくう・空の理解)の第一人者で、大般若経六百巻の中では善現善現(善現とは須菩提のこと)と呼ばれて仏の相手にされたほどの人だが、この人にしてこの性癖有りと云おうか、これほどの人であったが、行乞に際しては常に貧窮者の門(かど)には立たないで富貴の人の家の前にだけ立った。須菩提の意(おもい)では「富貴の人は貧賤な人よりも却って道に入り難い。一旦富貴で無くなると貧賤の人よりも却って哀れな境涯に陥(おちい)る、それゆえに願わくは早くこれを済度(さいど・救って)して入道種福(にゅうどうしゅふく・道に入る幸せの種を得る)の縁(えん)を与えよう」と云うのである。又、大迦葉は釈迦の法統を継いで二代目に成ったと云われる人で、富貴の出でもあり大学識の有る道心の強い人でもあったので、諸弟子中の第一位に居た人であったが、この人が行乞をするにあたっては、なるべく富貴の者よりは貧賤な者の門に立って化度(けど・教え導き)しようとした。大迦葉の意(おもい)では貧賤な者は現在に追われ苦しんで居て、道に入り福を得るには遠い位置にある憐れむべき者であるから、早くこれ等の人を化度して頭を切り替えさせ、上に向かう縁を得させたいと云うので有った。そこでこの二人は自然(おのず)と偏(かたよ)った行乞をしたため、大迦葉は浄名大居士(ヴィマラクーチ)に、「慈悲有りといえども普(あまね)きあたわず」と言われており、また須菩提も美食を盛って呉れた鉢を取り兼ねて退こうとした事が説無垢称経声聞品(せつむくしょうきょうしょうもんぼん)に出ている。階級制度や差別意識、これらはもちろん平等無遮(びょうどうむしゃ・平等を遮るものの無いこと)を鉄則とする仏教徒からいえば、子供が夢で実際には有りもしないものを見て考え悩むような愚かな事である。なので、須菩提も大迦葉も釈迦にその心の偏頗な事を叱られたのである。それを知っていた阿難は、まだ自分の所得所証(修行で会得したもの)が須菩提や大迦葉にも及ばないにも関わらず、平等の大義を実践しようと心ひそかに威儀をととのえて、貴賤の別なく化度しようと自他の利益を思いながら行乞したのである。殊勝な心掛け殊勝な振る舞いであったが危(あやう)いことではあった。羽(はね)のまだ弱い幼蝶が花を次々に訪れようとするようなことであった。風は東にも西にもある。花には毒のあるのも棘のあるのもある。ソモソモ危いことであった。(②につづく)

注解
・釈迦:インドの人、仏教の開祖。姓はゴータマ(瞿曇)、名はシッダールタ(悉達多)。釈迦牟尼、釈尊、仏陀、仏とも云う。
・阿難:釈迦の十大弟子の一人。
・摩鄧伽(摩鄧伽種):インドの階級制度の最下層の位置する旃陀羅種に属す一種。
・方等部:大乗仏教のうち華厳経・般若経・法華経・涅槃経などを除いたもの。
・首楞厳経:阿難が摩鄧伽女の呪力によって魔道に堕ちるのを仏陀の神力で救い出すと云うことが主題の経。
・銭牧斎:中国・明末清初の文人。銭謙益、字は受之。牧斎は号。
・子璿:中国宋代の『首楞厳経』『華厳経』に深く通じた学僧。
・暁月:子璿と同門の僧、伝記不明
・仁岳: 浄覚仁岳、中国宋代の天台教学に通じた学僧。「首楞厳経合論」
・房融筆受の訳本:「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」。
・方等密呪部:方等部の密教部分。
・智旭:蕅益智旭、俗姓は鍾、字は智旭。中国明末清初の高僧。
・法華経:大乗仏教の代表的な経典。誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。
・涅槃経:釈迦の入滅を叙述して、その意義を説く経典。
・二十五聖証円通の段:楞厳経の第五・六巻。
・波斯匿王:古代インドに栄えたコーサラ国の王。釈迦の保護者。
・波斯匿王の太子ジェタ:祇陀太子。
・須達:スダッタ。コーサラ国の富豪。 祇園精舎を建立し寄進した。
・文殊:文殊菩薩。舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。知恵第一の菩薩。
・須菩提:釈迦の十大弟子の一人。ひたすら修行に励み、他と争うことがなかったところから無諍第一と称せられる。
・大迦葉:釈迦の十大弟子の一人。釈迦の後継(仏教第二祖)とされる。
・阿若憍陳如:釈迦の最初の弟子。釈迦が成道して最初に教えを説いた五比丘の一人でその中心人物。
・浄名大居士:維摩居士の異名。「無垢称維摩経」に登場する古代インドの毘舎離城に住んだとされる大富豪で釈迦の在家弟子。仏教の奥義に達した居士とされ,仏弟子たちも維摩との問答では敗れる。
・説無垢称経声聞品:説無垢称経は空の理解に優れた無垢称と云う在家の俗人(居士)が菩薩達の未熟をやり込める話が書いてある経。その中の声聞品に須菩提と大迦葉の偏った行乞のことが書かれている。


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