手を伸ばして届くもの

ペダルをゆっくり踏み込むと生温い風が私の体に沿うようにブラウスと肌の間から抜けていった。
あたしさ、竹中君と付き合うことになったんだ、
頬を寄せてはにかみながら報告してきたサヤカに
私は乾いた笑顔を無理矢理つくり、
お似合いじゃん、おめでとう、
考えずに口から溢れ出すコトバを自分に言い聞かせた。
夏も終わり、ぎこちない掛け声が交差する校庭を横目に私は駅へと再びペダルをゆっくりと大きく踏み込んだ。流れ行く景色が夕日に飲み込まれていく。最寄りの駅に着いた頃には辺りは闇に包まれていた。今日の出来事を思い返す。サヤカの頬を寄せ、はにかんだ表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 竹中君と初めて言葉を交わした日の事をふと思い出す。
「筒井。」
そう呼ばれ学級日誌を書く私のシャーペンが急ブレーキをかけた。
「そんな驚かすつもりはなかったんだけど」と、
笑いを含んだ声でそう言うと学級日誌をまじまじと見て
「筒井の字って女子の中でも格別にうまいよな。」
その竹中君の言葉が突然私の心に飛び込んできて波打った。
そして、その言葉がリピートされた。
「俺、教室の窓全部閉めといたからあとはよろしく。」
その場に置いてけぼりの私と裏腹に竹中君は体育館へと渡り廊下を走っていった。
 数学の参考書を開いたまま、夏服に着替えた頃の心の隅に置き去りにした思い出を思い浮かべていた。サヤカとは同じ中学だったということで高校で仲良くなった。サヤカとは中学でまったく別のグループに属していたし、こんなに仲良くなったのも高校に入ってからだ。サヤカから竹中君の事が気になっているという話を聞いたのはいつだったろうか。
鞄の中を見ると白紙の進路希望調査が目に入る。
見て見ぬ振りをして鞄の奥に押し込んだ。寝る前に携帯を開くとサヤカからラインがきていた。
明日から竹中君と登下校することになったんだ。ゴメンね。
小さな顔の前で手を合わせながらも嬉しそうな弾んだ声で言うサヤカの姿を想像する。
頬にゆっくりと涙が伝う。
この一粒の涙が最初で最後だった。
行ってきます。
私の足に馴染んだ革靴を履きながら玄関のドアを開けた。
空が青く澄んでいる。
あの空に手が届くようにゆっくり伸びをして冷たい空気を吸い込んだ。
強い風によって木々が揺れて私に語りかける。
大学へ行くのか、それとも、就職をするのか。あなたの希望は?何かやりたいことはないの?なるべく国公立の大学に行けるように頑張りなさいね。私立はお金がかかるんだから。
ペダルを踏み込むと冷たい風がを頬を撫でた。
 教室に入ると連絡黒板の隅に進路希望調査来週火曜まで厳守!と担任のミミズが這ったような字で書かれていた。
「おはよっ!」
甲高くて甘い声が聞こえる方へ顔を向けるとはらはらと短いスカートをおどらせ、今日も自分がどのように振る舞えばかわいく見られるのかわかっているサヤカの姿が目に入る。
「おはよう。」とだけ私は返すと
「どうしたん。元気ない感じ?」
綺麗な二重でくるんと上を向いた睫毛と茶色のアイラインが引かれた大きなサヤカの目が私の顔を覗き込む。
「ううん、大丈夫、大丈夫。数学の課題が多すぎて昨日徹夜したんだよー。」
自分の心に嘘の膜を張って傷つかないように微笑む。
「なーんだ、よかった。」
と言うと同時にチャイムが鳴った。
「じゃあ、またね。」
と小さな手を微笑みながら振ってまた、短いスカートを揺らしながら席に戻っていった。
 古典の時間はいつだって長く感じる。あー早くおわんないかなぁと時計を見ると、まだ五分も経っていない。でも、ノートは絶っっっ対に綺麗な字で書いている。サヤカの丸っこい文字より何百倍も綺麗な字。色ペンを駆使して今日もきれいなノートと我ながら惚れ惚れしていると寝ぼけたような男子の号令の声が聞こえた。まだあと、五時間も授業ある。そう思うとだるくなって机に突っ伏した。机に突っ伏すと叫び声とか笑い声とかため息とか四十人分の今、考えていることが私の耳に集中して届く。二限目の終わりの号令よりもシャキッとした男子の号令の声が聞こえて私も心を入れ替えるように起立する。日中の柔らかい光に照らされてサヤカの栗色の髪が輝く。あーやっぱ勝てない。後ろ姿もかわいいもんなぁ。一テンポ遅れておじきをすると急いで席に着いた。
「あやー」
ピンクのぷるぷるな唇が私の名を呼ぶ。
「お昼たべよっ。」
たぶんサヤカの言う言葉一つ一つの語尾には小さい「つ」が入ってるんだろうなと思う。もし私が語尾に小さい「つ」をいれたら不格好になるし、例えばそこでお弁当をひっそりと広げて食べているメガネかけてて制服を校則通りのままに着ている四人組がそんな風な話し方しても違和感しか感じないと思う。これはサヤカみたいなかわいい、かわいい子がやるから可愛く感じられるんだよな。心の傷をまた自分の手で引っ掻いて瘡蓋を剥がす。どうせ私はサヤカの引き立て役ですよ。サヤカはピンクのつつみをほどくとちょこんと小さなお弁当箱を取り出す。お弁当を食べながら辺りを見渡す。一つ一つのグループが交わることなく島々のように孤立している。例え、席替えをしても新学期と変わらないままだ。サヤカとこのまま、あと約半年も一緒にトイレ行ったり、お弁当食べたり、彼氏とのノロケ話を聞かされると思うと風船のように私の心が萎んでいくのがわかった。
 あんなにうるさい教室も誰もいないと校庭の野球部の野太い掛け声やテニス部のきゃらきゃらとした色で例えたら黄色っぽい声が響く。
誰もいない教室は、怖いというよりは寂しい感じがする。
「おーい、筒井ー日誌書けたー?」
竹中くんの声であーもう週番一周したんだーと思う。
あの日のデジャブのように思えたがそんな思考をかき消した。
「もうちょいで書き終わりそう。」
赤く染まった頬を隠すように頰杖をついた。
その手首のミサンガはきっとサヤカの手作りだろう。その鞄のキーホルダーはサヤカがミニーで竹中くんがミッキーだ、たぶん。
窓から駐輪場の方へ目をやるとサヤカが寒そうに待っていた。
あ、たぶん竹中くんを待ってんのかな。
そう気づいた私は
「竹中くん、かわいい彼女が寒そうに駐輪場で待ってるよ、後は私がやるから早く彼女と仲良く手を繋いで帰ってあげなよ!」と
竹中くんと私だけしかいない教室にできるだけ長く居たいはずなのに冗談のように言い紛らわす。
「じゃあ、マジでごめん!後は任せた!」
と言うと竹中くんは足早に教室を出て行った。
竹中くんのなめらかに動く背筋を見ながら溜息をついた。窓に目をやると周りの山々に夕日が編み込まれていって、あーもうすぐ日が暮れるんだな、なんて客観的に見ている自分が馬鹿みたいに思える。
教卓を見るとメモが置いてあった。担任の汚い字で、このノートとワーク、職員室へ。溜息をまたつく。酸素の無駄使いだよなぁ、と気持ちを入れ直す。よし、運ぶか。四十人分のノートはずしりと腰やら背中に負担をかける。真っ白な廊下にぺたん、ぺたん、と私のサンダルが響く。
ぱたぱたぱた、

えっ誰かにいるの…初めて後ろを振り向くのが怖いと思った瞬間だった。背後から
「大丈夫?持つよ。」
照れ臭さもあって下を向くと自分と同じ色のサンダルの男子だった。同じクラスの松井くん、だ。
「ありがとう…、」
「あれ、竹中は?」
う、なんて言えばいいんだろう、えっとー、あのー…

すると思い出したように目を見開いて
「竹中、彼女と帰ってた!マジでアイツ最低だな…筒井に全部仕事押し付けて、」
「ううん、違うの、私が帰っていいって言ったの、あと竹中くん、窓閉めとか黒板消しはやったから、」

自分でも驚くほどせかせかと言葉を連ねた。
二人ともおかしくなって笑った。
私は何故だか涙がにじんで松井くんの顔がぼやけて見えた。
「筒井って、そんなマシンガントークする奴だったっけ?」と、
くつくつと笑う。
誰もいない廊下に私たちの笑い声が響いた。
明かりがともっているのは職員室だけだからなんだか変な感じだ。
やっぱり、二人で運んだ方がすぐに終わった。
松井くんって優しいな。
職員室の微かな明かりに照らされた松井くんの顔が綺麗で、

でもずっと見てたら変だからちらっとだけ見る。

駐輪場へ向かうと、いつかに聞いたぎこちない掛け声よりかはましになったなぁと校庭を見ながら帰宅部の立場から偉そうに評価する自分がまた、おかしく思えた。
唇を舐める、私はガサガサなままだ。
自転車のライトが私の方へと迫ってくる。
「筒井、じゃあな。」
「またね、」
サヤカのように微笑みながら手を振ることも、ピンクのぷるぷるな唇で「またね」とも言えなかったけど、今は心が温かい。
北風にスカートが膨らむ。でも、私は負けずにペダルを漕ぐ。
微かな明かりに照らされた松井くんの顔をなぞる。 

ふわりと温かくて甘い、ものがカラダを駆け巡る。
心の傷を優しく撫でる。

街灯が滲んで見える。毎日見ている景色なのに、綺麗だと感じる。

一番星に手が届くように手を伸ばしてみる。
今日は、なんだか届きそうな気がして。

指先がかじかんでカーディガンをめいいっぱいのばす。

  
まだ心は温かいままだ。