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深い気づきには大きな衝撃が伴う


最近キャリア関連の投稿や
論理的思考力を鍛えるためにアウトプットするような投稿
が多くなっていたのですが
日々の感じたことや気づきも引き続き
この場に残していけたらなと思っています💐



深い気づきには大きな衝撃が伴う

これは陸上選手の為末大さんのnote記事から
言葉をお借りしたものです

👆記事はこちらから


セルフコーチングを取り入れられていたこともあり
言葉の一つ一つにたくさんの気づきや発見があるnoteなのですが
今回のタイトルにもしている

\深い気づきには大きな衝撃が伴う/

という言葉

ものすごくずしっと
そしてしっくり来たので、何度も使わせていただきました



私たちは気づいているようで気づいていない

深い気づきには大きな衝撃が伴う サムネ (1)

人生で一番長く
そして最初から最後まで付き合うことになるのは
誰しもみな自分自身かと思うのですが
自分の事ってよくわかっているようでわかっていない
気づいているようで気づいていない
という事がたくさんあります

例えば
日常のふとした瞬間でイラっとする場面に遭遇したとき

具体的に言うと
私は先日久々に通勤をして仕事をしたのですが
帰って来た時に「未完了になっていること」が多くて
帰ってきて真っ先に思ったことは
「このくらいやっておいてよ…」
というため息と苛立ちでした

帰ってきてるなら洗濯たたんでおいてよ
自分の分だけの夕飯じゃなくて私たちの分も
回覧板受け取っておいてよ
トイレットペーパー少なくなってるから補充しておいてよ


………

でもこれを思ったときに直ぐに苛立ちを言葉にするのではなく
「~と私は思っているんだなあ」
を自分の感情にくっつけることで
自分自身の今の状況をメタ認知
してみる

ことが私たちにはできます

「帰ってきてるなら洗濯たたんでおいてほしい、と私は思っているんだなあ
「自分の分だけの夕飯じゃなくて私たちの分も用意しておいてほしい、と私は思っているんだなあ


そうすると不思議なことに
苛立ちが真っ先に先立つものではなくて
「無意識に相手に抱いていた期待」
に気づくわけです




気づいたことをどう扱うか

深い気づきには大きな衝撃が伴う サムネ (2)

最初の段階でそのまま
自分の気持ちに気づこうとするきっかけがなければ
「私自身は短気な人なのかもしれない」
で終わっていたかもしれないものが
俯瞰的・客観的に自分への気づきを想起することで
気づいていなかった自分の奥底にある感情にも気づけたりする

そこから紡がれる自分の言葉は
誰かに対する苛立ちというトゲトゲの生えたボール
として相手に投げかけるのではなく

私は夕飯の支度するから、洗濯お願いしてもいい?
という提案ボールを投げるという選択肢が増える

事になります


気づいたことが終わりだったり
そんなはずない…!
と気づきへの衝撃に拒否反応を示したりするのではなく

気づきをスタートラインだととらえて
井の中の蛙にならないよう過ごしていきたいものです

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