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手習いはいつからでも

 2月の振り返りをここ何回かに分けて書かせていただいています。

 今回は下旬偏になるんですけど、タイトルだけでも変えようなかな?と考えながら書いています。
 やっぱり上旬偏、中旬偏ってつまらないタイトルだなって思うんです。少しでも内容に適したタイトルを付けたほうがいいんだろうな、と。読んでいただける方に対してもその方が。


 白洲正子さんのエッセイが気に入っていて、少しずつだけど読んでいます。その中の一文に

「六十の手習い」六十になって新しいことを始める意味ではない。いままで一生続けてきたものを改めて最初から出直すことをいうのだ

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 文庫 – 1993/4/5

というのがある。

 これまでもいろいろなことを学んできたし、自分なりにここまで何とかやってきたつもりではいたけれど、そうではなくて「六十の手習い」というように絶えず自分の内面だけでも変化していかなくてはいけない。
 新しく何かを始めることも大事なことだけど、そうではなくてこれまでしてきたことを見直して改善すること。アップデートするとか、アップグレードするという風に言うんだろうか。とにかくそういうこと。

 整体操法ももっとうまくなりたい。そのためにはお稽古するのはもちろんのことだけど角度を変えて考えてみることも必要だ。あれこれとその場で考えているのでは機を逸してしまうし、間がおかしくなる。操法がいつ始まるのか?という問いもあるけど、実際に動き出すときには操法の完成形は出来上がっていて、まるで舞を舞うように操法を行う。わたしはまだまだ及ばないが、師匠の操法を観ているとそう感じる。みえない身体操作が隠されている。全体を通すと舞っているかのように感じる。

 「六十の手習い」。まだわたしはそこまでの年齢に達してはいないけれど、六十になっても手習いをするのだから、いまから怖気づいていてもしょうがないなと思う。しかし先はまだまだ遠いのである。


 22日も雪でした。今年はほんとうに雪が多かった。今回の話は夜に移動した時の話。22日は出張でした。夜になって移動。身体の疲れもあったのだと思う。クルマを運転して移動しました。出張先に行って帰るトンボ帰りの一日。スピードを出していたわけではなかったのですが、とにかく移動中は気が休まらない。家に帰らないと気が抜けないのですから、急いでいるわけでもなくても、少しでも早くゆっくりしたい。

 疲れていたからというのと、半ばあきらめのような感じで何となく運転していました。いま思うとそれがよかったんでしょうね。まだ雪が道路のわきには残っています。でも路面の上には雪がなくてアスファルトが見えていました。

 あるところに差し掛かると、橋の上でした、クルマが急にすーっと滑る。あれ?って思って少しハンドルを切ると次は反対方向にすーっと滑る。プチパニックです。また反対にハンドルを切るとすーっと滑る。何度かそうしながら通常運転に戻りました。汗びっしょりでした。


 お墓参りというものは故人にとって意味があるものなのだろうか?そういったことを考えることが合理的であると言えるのだろうか。お墓の中に眠っていませんというような歌詞の歌がありましたが、おそらくお墓を掘り起こしてみても故人はそこにはいないのだと思います。

 ただ、お墓参りに行くこと。お墓参りに行こうって思うことは故人を思い出すきっかけになっているのではないかと思います。

 事前にこの日はお墓参りに行こうって計画を立てている時もあれば、そうでないときもあります。何かしらふとお墓参りに行こうって思った時には行ったほうがいい。故人のことを思い出しながら準備をして道中を移動するのもいい。

 連れと故人について話すこともあれば、黙っていながら故人に思いをはせることもある。

 お墓の前で手を合わせてもそこに故人はいないけれど、それでもやっぱりお墓に来てくれてありがとうって喜んでいるような気がするんです。


 話すのもそうだけど、noteとかブログ、メール、ラインなどでもとにかく言葉というものは感情を伴うものだなと思いました。それが言葉の端々に現れている。本人は隠しているのつもりなのだろうか。それとも気がついてはいないのだろうか。どちらにせよ、言葉には感情がついて回る。

 隠している感情なのであれば気がついてあげないほうがいい。そういったことを指摘しないほうがいい。

 気がついていない感情だったら尚更気がついてあげないほうがいい。認めたくもない感情かもしれないからだ。それを認めるのは持ち主がやればいい。認めたくない感情を認めるのはきっと苦しいことだろうから。


 印象派と呼ばれる人たちの作品を観に行きました、おそらくはじめて。朝からそのために準備して美術館に出かけました。

 印象派ってこれまでの絵画とは違って見たままを描いたものが印象派だそうです。「そのままやん!」「見たままやん!」「自分の印象やん!」ってこれまでの絵画界から言われて印象派だそうです。真意は知りません。

 印象派展に展示されている絵画は船で魚を捕っている人の絵だったり、運河が流れている絵だったり、ベルリンの街並みだったり、稲刈りをする人たちだったり。そういったどちらかというとわたしたちの日常にも近いものがモチーフになっている。

 これまでおそらく印象派と呼ばれる人たちの絵を実際に鑑賞したことはなかったと思いますけど、印象派の人たちの絵画からはどうしてこれほどの生命力を感じるのだろう。モチーフになっている人たちや自然自体に生命力があるからなのかもしれないが、それでもすごい生命力でした。

 ゴッホを観ました。わたしの知っている乏しい知識とそこから生じるイメージからは、ゴッホって精神的に病んでしまって、自分の耳を切り落としてしまったり、絵が全然売れなくて、最終的に自殺をしてしまう。どちらかといえばネガティブな人物像。その人の描いた絵にどうしてこんなにも生命力を感じるのだろうか。

 強烈な生命力の裏返しがネガティブな部分を生んでしまったのではないだろうか。生命に溢れていたからこそ、その反動で暗い闇を抱えたのではないだろうか。

 鬱屈してうっ滞した感情や生命力は心身を蝕んでいく。整体的な感じで言うと捻じれてくる。そうして捻り切ったものが耐えきれずに自分自身を傷つける行為に及んだのだろうと思う。

 ただ、飾られている絵画からは光を感じる。それと同時に作者のプロフィールを観ると光と闇が作品を作者の人生を投影しているようにも感じる。それでも闇の反対側にある強烈な光を見たくなるし、光を感じたくなる。光が強いと闇が濃くなるのではなくて、光から遠いから暗くなる。「この人はこういう風に光を観ていた」その経験を見せてくれたようでとてもうれしかったです。


 3月の半ばになろうとしています。毎日いろいろなことがありながらも、進んだり戻ったりながらも、多分進んでいるのだと思います。


 本日もお読みいただき、ありがとうございます。

読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。