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型を型通りに行じること

 あれこれと頭の中で考えてから行動すると遅くなる。一息遅れたりして、それまでのリズムが崩れてしまうことがあります。
 
 どこかからか、あるときの波に合わせて始めたものを一息遅れることによってつながりが悪くなってしまったり、結果的に全然別のものになってしまったりします。どこまでが波に沿っていて、どこからが外れたのか。自分ではよくわかります。あれこれと頭の中で考えたときに外れることが多い。

 もちろん現場でというレベルになると型式通りにはいかないことの方が多いですし、そのつど即興的に変更していかなくてはならないことの方が多いのです。最初から用意したプラン通りに事が進むことの方が少ないとも言えます。即興的に現場で用意してきたプランを捨てて、新しいプランを作成する。涼しい顔をして、あたかも用意してきたことのように、あたかも想定内であるかのように。波を外すことなく、息の調子を外すことなく。

 ここで重要になるのが型です。型というと畏まっていて、窮屈なイメージがあります。確かに普段とは違うことですから型なのです。普段から型どおりに動いている人がもしいたらそれは天才でしょう。普通の人とはちょっと違うという意味においても天才でしょう。わたしたちのような一般的に何となく生きている人からするとどうして型のようなものが存在するのかさえ不思議に思ってしまいます。普段何気なくしているものと異なるのですから、畏まって、窮屈に思えても仕方のないことです。

 足の運びひとつとっても違います。型だからと言って特段に難しくて難解な動きなのかというとそうでないものもあります。特段難しいものもありますが、そうではないものもあります。説明されて、見せてもらって、やってみると案外できる。「なんだこんなことか」と思うのですが、それをいつも、となると急に難しくなります。何気ない時の足の運び。いつもそれを行うことがお稽古なのだなと思います。

 型としての動きはオートマチックにできないと意味がありません。そのつど「どうやって立ったかな?」なんて考えていると、もう外してしまいます。型は型通りに行うのが基本なのですが、基本を自然に自動的に再生できないと工夫なんてできるはずがないのです。

 お能やお茶など型のある世界は常にそうです。型を型通りにできるのは当然のことであり、そこからどう型破りなことをするのかが名人です。型がないものに型破りなんて存在しません。

 近代日本では生活様式も随分と変わりましたし、価値観も変わりました。わたしの両親の世代、祖父母の世代と比べても随分と変わりました。祖父母も世代からするとわたし自身も型破りと言われたりもするのかもしれません。ここで言う型とはその当時の社会の常識とか通念といったものでしょう。女性が高学歴を得るというだけでも後ろ指を指された時代が祖父母も世代です。いまでは多くの女子学生が大学に通っておられます。

 型というものは社会常識や通念のような変化するものではなく、おそらくですが、それまでに余計なものをそぎ落とした末のもの。変化といっても変わったように見えるのは素人目にだけで、名人からすると名人は型を型通りに行じていて、型破りでも何でもなかったりするのではないかと思います。

 そう考えますと師匠が以前におっしゃっておられました「型はわれわれ凡人が天才に近づくためのもの」という言葉もたいへん納得がいきます。

 型を型通りに行じることは当然であり、型どおりにできたときからスタートする。頭でいちいち考えているようではどうにもならないものだと心に留めておかないといけません。

 このことはいろんなことにも通じることで、経営においても経営理念がたいせつだと言われます。その会社においての型というものは何でしょうか?社会の常識や通念、流行り廃りの中で変化していくのは当然のことですが、普遍的なものはいったい何でしょう。型破りを無理に目指さず、型を型通りに行じることから、普遍性が生まれ、変化が生まれてくるのだと思います。

 時間も資産です。お金ももちろん資産です。どこに資産をかけるとよいのでしょうか?普遍的であるものにかけるべきだとわたしは思います。


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