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個々の身体、個別の腰痛

整体をしておりますと、いろいろな人のお身体を拝見させていただきます。
愛光流の整体は、町のそこらにある整体のように1回に60分とか90分とか時間を掛けることはありません。
約15分から20分の時間を使ってお身体を拝見します。

そもそも誰かに60分も90分もグリグリしてもらわないと変われない身体の方が問題です。
それをさらに力いっぱいグリグリされるのですから、身体はもっともっと感覚を鈍くして、その場を乗り切ろうとします。
鈍くなった感覚はいつまでも鈍いままです。

感覚が鈍いのがなぜよくないのか?
それは気が付かないからです。

気が付く、察知する、感じ取る能力が著しく低下します。
本来でしたら感覚が鋭敏で、さまざまなものを感じ取る能力が優れているからこそ、危険を察知したり、花や鳥のさえずりから機微を感じる。
そういった豊かな感受性が日々日々を楽しく彩られたものにすると思います。
 
それはさておき、私たち整体の人間は、その人の「腰が痛い」からと言って、腰を施術するというよりかは、人間の身体はどのようになっていて、身体のどこがどう壊れていて、今の腰痛というものを作っているのかを観るわけです。
 
そうやっていろんな人を観ていますと、同じ腰痛という名目でウチにいらっしゃる人々でも、誰ひとりとして同じ人間というのはいないのがよくわかります。
 
たとえば、朝通勤や通学のため、駅に向かって歩いている人を眺めていても、同じ人はいないです。
ということは、腰痛の原因も同じということはあり得ないです。
 
私たちは唯一無二の存在であると思いたい。
誰にも負けない私独特の能力や才能があるはずです。
今の私ではない私がどこかにいるはずだと信じています。

しかし、腰痛となると誰もかれも同じだと思う。同じだと思いたくない人は次に腰痛自慢が始まります。
「どこの整体に行っても自分の腰痛は治せなかった」
「あちこちの評判の医者に行ったけど同じことだった」
自分の不養生の自慢をしてどうするのだろう。
「私は他の誰とも違うんだ」という叫びにしか聞こえない。

だいたい人間同士がケンカをする理由は、自分と同じだと思って話をするからです。
 「だって普通はこうじゃない」って言うんです。
その人の普通はもうひとりの人にとっての非常識でもあります。
だったとしたら、はじめからその人は違う人だと思って話をした方がいいです。
 
ご結婚したご夫婦。 
新婚さんのご夫婦が結婚後1年くらいすると相談に来ます。
だいたいその内容は「ウチの主人はわかっていない」「ウチの奥さんはわかっていない」
私たちは何をするかというと、その間に入って通訳をします。
「ご主人はこう言っていますよ」「奥さんはこういう意味で言っているんですよ」という具合。
いつの間にか一緒に住んでいるから、いつの間にか同じ人間だと思ってしまう。
一緒の人間だと思って暮らしているとぶつかり合う。
だったら最初から違うと思った方がいい。
違うと思ったから惹かれた部分もあることだろう。
いつの間にかそれを忘れてしまっている。
 
私たちは均一にあることを、どこかで正しいと思っていて、そこから外れることを正そうとする。
社会のルール、家庭でのルール、自分なりのルール。
いろいろなルールを守ることで、うまく循環させようとします。
そのことはとても素晴らしい。
社会のルールがなかったら、無法地帯になってしまう。
そんな危険な地域に住みたくはありません。
 
しかし、生きているだけで誰もが個性的であり、はじめから個性ありきでものごとを進める方が、ケンカも争いもなくて良いのではないかと思います。
 
そう考えると、いま抱えている腰痛は誰にもまねのできない唯一無二の腰痛だと誇りに思っていただきたいです。
腰痛を乗り越えるのにもそれぞれ適った方法があり、私たち整体の人間は、それを見つめています。





読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。