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自分探しはやめなさいと言われるけれど

 こんなものだという思い込み

 世間にはこれはこういうものだというある一定の価値観といいますか、そういった思いこみがあるもの、価値が思い込まれているものがあるなぁと思っていまして、それが意外と思い込んでいる以上の価値と言いますか、こんなことにも役に立つのか!というような驚きを経験することがあります。それを感動とか言ってみたりするものでして、それを演出することで集客の方法だとかマーケティングの方法に使うというようなこともあるようです。

 でもとにかくそのものの持っている価値というものが正確にわかってもらえないと意味がないわけでして、それを知るひとつの方法がレビューというものです。そのサイトやページよってはレビューだったり口コミだったりと言うような言い方をします。他人というものはこのレビューや口コミのことを案外信用していたりするものです。そしてその評価に一喜一憂することもあるようです。

 レビューや口コミの呪縛

 たとえばあなたが職場の先輩から食事に誘われたとしましょう。この先輩は仕事もできて知識も豊富。後輩の面倒見もいいというたいへん尊敬できる先輩です。「このあいだいい店を見つけたんだ。今度連れて行ってやるよ」とか何とか言われまして。「ほんとうですか!ありがとうございます!楽しみです!」なんてことを答えたとしましょう。「じゃあ〇日に仕事が終わったら行こう」というような約束をしたとします。今度この先輩が連れて行ってくれるお店はどうやら○○というお店らしいということを聞きつけ、さっそくインターネットで調べてみる。このときにお店の雰囲気や場所はどこにあるのか?交通手段はどうなのか?営業時間や営業日なんかも確認します。食事に行くのですからどういったものがおすすめなのか?メニューはどういったものがあるのか?などなどを調べます。

 その次に調べるのがレビューや口コミです。このレビュー、口コミというものは一般的に他のお客さんやこれまでにお店を利用した方がこのお店につけた価値です。このレビューや口コミがよくなかったらどうでしょう?ちょっと微妙ですよね。せっかくあこがれの先輩が連れて行ってくれるんだから文句言うな、と言う部分もありますが。

 仮にこの先輩がおすすめしてくれたお店が☆ふたつの価値だったとしたらどうでしょうか?☆ふたつのお店に連れて行ってもらう自分ってどうよ・・・って自虐的に思うかもしれませんし、☆ふたつのお店をいいお店だと言う先輩って大丈夫なのか・・・って思うかもしれません。

 たとえば仮にそのお店が後日行ったときに先輩の言う通りとてもいいお店だったとしましょう。美味しかったとしましょう。でも☆ふたつを美味しいお店だと思ってしまう自分って・・・っていうふうに自分自身を疑ってしまうかもしれませんね。実際に体験したのに☆ふたつという呪縛から逃れられない自分がいたりします・・・。


 自分探しをしてはいけないと言われるけれど・・・

 さて、先のたとえ話は極端だったかもしれませんが、物事にはそういうふうに価値を思い込まれているものがあると思っています。

 われわれ愛光流では四柱推命、命理学を学びます。この四柱推命、命理学も過小評価されているものではないかな?とぼくは思っています。

 一般社団法人愛光流の山本清次先生が動画の中で「自分探しをしてはいけない。自分なんて外に探してもないよ」と言いました。そうするとある方は「じゃあ、どこにあるの?」「じゃあ、どうしたらいいの?」ってお聞きになったそうです。

 たしかに自分探しの旅に出るんだ、という若者もいますし、未だに自分を探そうとする人もおられます。自分らしく生きていきたいとか。じゃあ、自分って何?自分らしさって何?ってなるわけですね。

 それでいろいろなセミナーに行ってみたり、あちこち講演会に行ってみたりするわけです。たしかに多くのセミナーや講演会にヒントはありますけど、それで「自分を見つけました!」って言う人はなかなかおられません。正確に言うと「見つけました!」って言う人はおられるんですが、でもしばらくするとまた自分を探しています。あれ?このあいだ、見つけたました!って言っておられたのにな??っていう感じです。

 しかしこれは、今迷っている、今悩んでいる人からすると当然のことかもしれません。あれしたりこれしたりいろいろとこれまでやってきたけれど何かが違う・・・。でもほんとうは自分は何がしたかったっけ?ほんとうの自分って何だろう?ってなるわけです。そうしてまた答えを探そうとするのです。

 自分を探して見つけるという行為は現代においてはなかなか難しいですね。いろいろな方法があるわけですけれども、逆に何がどうだかもうわけがわからない。それでいろいろと探してみたり口コミをあてにしてあっちウロウロこっちウロウロしてしまうのです。知人にいいよって紹介され参加したセミナールームの扉を開けた途端「間違えた!」って思った数もいざ知らず・・・ですかね。

 推命理論、命理学は占いなのか?

 われわれ愛光流ではそういった部分で言いますと推命理論、命理学を使います。これは四柱推命とも言われています。四柱推命と言いますと占いというイメージがあるとは思うのですが、それはひとつの思い込まれた価値観だと思っています。四柱推命や命理学を単なる占いで片付けるのはたいへんもったいないのです。

 四柱推命、命理学は古代から伝わってきたひとつの学問であり、普遍的な理論です。これは自分の生年月日から導き出されるものですが、ここに導き出された命式というものに自分の性質や感覚、形が現されており、それを知る方法なのです。命式から自分自身の初期設定を知ることができるのです。

 自分がどういったものに興味を持ち、どういったものに感受性を持っているのかを知ること。それを違う他の誰かと照らし合わせることで相性を観たりすることはできるでしょう。でも、それだけではもったいないとぼくは思っているのです。

 知ったうえでやってみる

 四柱推命、命理学は自分を知る方法のひとつだと言いましたが、けっきょくのところ答えを外に求めるのはあまりよいとは言えません。知るだけでは知識を得ただけでセミナーや講演会に行っていることと同じように自分を変えることはできないのです。

 自分を知る方法や知ったことによって自分を変える方法は四柱推命だけでなく他の方法から得たものを自分に落とし込んでみることです。そして振り返ること、顧みることです。そして自分はどうなのか?ということを再度自分に問いかけなければいけません。そして、いいなと思ったものは実践する。そして振り返る。このことの繰り返しをすることです。そうすることで、ようやく自分というものの形がおぼろげながら観えてくるかもしれません。

 推命命式から思う

 ぼくは推命命式を読み解いていくとその人がとても愛おしく思えてきます。その人も知らないその人の形なのかもしれませんし、ぼくとその人だけで共有しているその人の姿なのかもしれませんし、一般的なその人というイメージなのかもしれませんが、人間はみんな一生懸命に生きているんだなって思うと無性に愛おしく思えたりするのです。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。


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