『21世紀の啓蒙』スティーブン・ピンカーを眺めて。

  昭和の戦争が終わってしばらくして出てきた子供向けの雑誌には来月号の付録というページがあって、それを眺めているのはとても楽しいものだった。今はそんな子供向け雑誌もなくなりもちろん来月号の付録なんてものもない。子供向け雑誌も来月号の付録も考えてみるとそのコンセプトはビックリするほど進歩的で明るく楽しい啓蒙精神でいっぱいだった。
 啓蒙なんて言葉やフレーズなんてとっくの昔に忘れてしまっていた。啓蒙とか言われてもあまりいい印象はなくなっていたのかもしれない。ピンカーの本のタイトルを見てまたなんかいけ好かない上から目線のご託宣を聞かされるのかと思ってパラパラとちょっと目についたところを読んでみると確かにその通り。
 こういうタイプの本は、なんというのか、むかしあの大瀧詠一さんが自分のアルバムにしるしていた「フォーファンズオンリー」といった注意書きみたいなところがあって、そう思ってから読まないとたぶんぜんぜん入ってこなくてダメなんだろうと思う。
 さて、そういう心づもりで接しないといけない。そう思って眺めていると、忘れていたこどものころのあの感じが帰って来て、そうか、ピンカーのこの本は全編すべて子供向け雑誌の長大なる来月号の付録のお知らせなんだと思って読んでみなければうまく楽しめないということがわかった気がした。理性、科学、テクノロジー、問題は解決され人間は救われるだろう。楽観論は悲観論よりいいでしょう。強い心はくじけないで悲観論を退ける。
 
 ピンカーのいたって正直な斜に構えたりしない育ちの良い意志の強いおこさまな感じは決して悪くはないのですがマジメに受け取るのはどうもなという感じがするのも確かなことです。「理性、科学、ヒューマニズム、進歩」の啓蒙なので、お子様たちが成長して自分で理性的に判断できるあるいは、適切な機会に適切な誰かに向かって適切な正しいしかたで質問できるようになるというテーマなので、それは来月号の付録なのかも。しかし今は「来月号の付録」どころか子供向けの雑誌文化もないので、いきなり「来月号の付録」を裸のままで突き付けられたみたいで、その勢いにびっくりしてしまう。
 ちょっと離れて眺めてみると、この本に描かれた景色は、人類は幸福になる長大な順番待ちをしていていて、多くのデータを分析してみれば、その大きなトレンドを見ると進歩は決して不可能なことではないという感想を持つことはできる。とはいえ、それはやっぱり順番待ち。その印象は否めないでしょう。
 そこでできることは何かと考えるとそれは順位を上げること。ある個人が自分の順位を圧倒的に上げるには誰もがうらやむ学校に入って、順位が上がる、超有名大学に入って、ドカンと順位が上がる、とても素晴らしい人々からなる企業に入って、かなり世界の頂点に近付いて、出世して順位の高い人たちのインナーサークルの中に住めるようになれば良いに越したことはない。まあこうした生臭い話はともかくとして、いずれは誰もが幸福に生きられる時と場所が実現することが期待できるという根拠になる様々なデータと論理的な推論を持ってきてきらびやかな夢を語っては見せてくれます。

 あちこち拾い読みをしてみると結局のところ将来に希望を持つには正しい知識や信頼できる有能な友人関係をみつけるスキルというのか、心の技法のようなものが必要になるという気がします。こうなるともう、来月号の「来月号の「来月号の「来月号の「……… となって、先の先のことにはあまり関心が持てないということになりそうです。しかし客観的なデータを見てみると確かに昔より人びとは豊かに暮らしているのはわかります。洗濯機や冷蔵庫、オーディオセットにテレビやコンピュータ、衣服や食べ物や住むところは圧倒的に良くなっているわけで幸福であるための必要条件みたいなことはだいたい先進国の人間ならみたされています。要するにそれらはとても安価になったということ。つまり終戦後の子供雑誌の「来月号の付録」みたいなことは大方実現したということ。しかし子供雑誌は単に物欲を刺激しただけではなかったはずでそこには今からではもうわからない夢とか望みとかがあった気がします。矛盾した言い方ですが言語化されない雑誌のイラストには描かれていない何かがあった。つまり、まだ見ることのできない手にすることのできない「来月号の付録」みたいなもの。まあこれは比喩的に言ってるわけです。
 それでもいつかは、比喩的なものでしかない「来月号」が「今月号」になり、来月号の付録は今月号の付録になってそれを手にした時が来るときには、もちろんそれが期待外れのあるいは、思った通りのものでなくても別に失望したりはしない。
 
 「世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」判断するのはなんだか野蛮なことのようで、これをどう考えるのかというと、たぶん「来月号の付録-世界は良くなっているよ」だったことが今月号の話題ー世界は悪くなっているのかーになってしまった記事のなのかに見てしまうときの違いでしかないのかもしれない。
 戦後の子供たちの子供時代もいずれ終わってしまい、中学生になればもう性的な関心に七転八倒するようになってしまい、もう来月号の付録みたいなものには全く関心が消えていった。「世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」、はどうでもよくなって自分のことが、だれか魅力的にみえる人のことや、良い学校に行くこと、良い仕事に就くこと、成功すること、幸せになること、………、やがて大人になってその現実にぶつかることになっていく。

 大人になって時間が経って、もしいつか、「世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」みたいなことについてのこうしたお話を聞くときにこどものころのように、来月号の付録を期待したような気分になれるかな。いつになっても子供っぽさがとれないでおこさまみたいなところがもしあったとして、そのこどもは言葉にしないどんな感じ方をするのだろう。
 そんなことより問題は、あなたは「良くなっているのか、悪くなっているのか」だよね。

 楽観論は子供のもので悲観論は老人のものだ。大人にとっては、そういうことはどうでもよくて自分の今いる立ち位置が自動的に決めてくれるだろう。科学や技術のことなんて知ってる人の方が珍しいくらいだし、専門家とは間違える人のことだし、期待されることと期待できること、実際に現実化することと考えられたとおりに近い形で実現することなど、それらはかなり違っていることなのかもしれない。ともあれ、様々な問題に対して様々な解答や選択肢が高級レストランのメニュー表のように出されているのは感心してしまう。どんな素晴らしいレストランのメニューでもやはり好き嫌いはあってそれはこれについても似たようなものだ。たとえば原子力発電はピンカーのメニューに入っていますがこれを嫌いで嫌いでしょうがない人もいるでしょう。
 試しにこの本の読者は自分向けのコースメニューを選んで作ってみるといいかもしれない。あなたの理性によく合うものは何ですか。あなたの気持ちはどうですか?

 ピンカーの書く来月号の付録は、膨大なものなのでとても子供の気持ちで読めるものではない。でも、どこか面白そうなところが目に入ったらためしに読んでみたらいいとは思います。読んでみれば、この、進歩という長大な時を必要とするものに少しでも触れることはできます。
 進歩の恩恵を受ける人が多く出てくることをうれしいことだと思うこどものころのこころにまた触れる機会はそう多くはないので、とても全体を読む気には到底なれないけれどピンカーの本は眺めてみるくらいの価値はありそうです。でもかなりうんざりしちゃうかもしれない。

 ただ、気になるのは、こういうことを非エリートの人たちがあえて知りたいと思うとは考えにくいし、たとえ知ったところで様々なデータで説得されるための前提になる知識はほとんどないか忘れてるし自分とは関係ないめんどくさい難しいこと努力して知っても何の足しにもならないと思うのが普通だ。もう高級なメディアの記事や報道は一般大衆にはどうでもいいことで、それでも報道が一般大衆にアピールするならば記事は面白くなくてはならずそれゆえかなりゆがんだ報道も許容されてしまうかもしれない。もともと人間の関心の広さはダンバー数的なものに条件づけられているので複雑さがカットできない説明文は読まれる機会はあまりない。誰かオーラのあるカリスマ的な人物が出てくれば一般大衆は興奮して関心を持つかもしれないがそういう人物はなんだか怖くてしょうがない。だから、ピンカーさんがいいのかもしれない。
 おもえば、戦後すぐのころの「来月号の付録」は希望に満ち満ちていたしそれは全く手放しの科学技術の少しの疑いもない信頼=希望の世界だった。
 あれから先進国に限っても悲惨な環境汚染は起きたし経済危機もあったし信頼=希望どころではなくコントロールの可能性には不安がつきものになって先進技術の効力や危険性についての長大な議論はそれをいざ実行に移すときには出てくるたくさんの問題を透明性を持って処理していくことには難色を示す利害関係者をどうするかをめぐって政治的な駆け引きに巻き込まれていくのは避けられないと普通は誰でも思うかもしれない。とはいえ、全体的には歴史的な統計を調べる限りにおいては、大丈夫進歩してるじゃん。
 近頃はやりの人類のビッグヒストリーはともかく、どんな個人のどういう小さな物語が一般大衆の大きな関心を呼ぶのかのほうが話題としては人間的なのかもしれない。やはりピンカーさんはエリート向けの特殊な話題なのでしょう。一般大衆に科学やテクノロジーのことを話すのは随分と難しくなってきたのかもしれない。子供のめでたさに応えられるような科学やテクノロジーの話って無理なんだろうか。SFよりもファンタジー?似たようなものだけど違いってあるのかな。というか、SFやファンタジーとピンカーさんたちの新啓蒙主義は水と油で全く親和性がないのか離れてい過ぎるのか、たぶんその両方だと思うけど、何とかならないのでしょうか。何ともならないんだと思います。

 何ともならないんだなこれが。子供の心と大人の心はどう違うのか。子供の頃はみんな親しい、大人になると親しいの意味が曖昧になってわからなくなる。子供の頃はほんの数人でなかよく一体感がいっぱい。大人にとってはかなり大きな集団にならないと一体感が感じられなくなっている。大きなスタジアムのコンサートやプロスポーツのゲーム、大きなイベント、観光地、大きな人々のまとまりが動いていく。立ち止まって何かを思ったり考えたりしたら事故になってしまう。大人になるころには、たぶん、脳の働く部位が違ってくるんだろう。たぶん一番の問題は大きな集団で機能するという社会のしくみが情報技術的に生物学的脳科学的認知科学的に新たに自己組織化していくシステムに集団的な心が齟齬を感じてしまうということなのかもしれない。国家とか権力の編成が変化して組み合わせが変化して様々なことを試している過程が情動的にも概念的にも届いていないからなのかもしれない。ピンカーさんの前著の暴力の話は分かりやすいのに比べて啓蒙の方はまだそこまでいっていないのかもしれない。それは、ひょっとすると、暴力が身体の外側の問題だったのに対して、啓蒙が導いてしまうのは身体の内側の問題にまでいってしまうことがあるからなのかもしれない。先進諸国の問題は幸福ということに尽きると思いますが、それが身体の外側だけで実現できればいいのなら、機械や医療技術、衣食住の水準が発達すればうまくいくだろう。ところがどうもそうではないらしい。
 
 ホントのところまだ問題の立て方が誰にも分っていないのかもしれない。この本は本としてのまとまりとバランスがうまくいっていない印象を持ってしまう。この本から受ける印象でいいなら、おとなの心はもうやめにしてこどもの心へシフトいていった方がいい感じがしてくる。それは、おとなの心を別の言葉で言い換えていくと、どういう単語が出てくるか少しでも考えてみればわかるのかもしれない。なんか暴力的なものが結構出てきそうだし。大人は怖いし男は怖いし女だって怖いし子供は怖くない。

 ようやく結論めいたところに出た気がしている。この本ではほとんどまったく語られてはいないけれど、おそらくこれからの問題のわかりにくさとは、身体の外側の生きる環境がよく整備されていくことより、もちろんこれは大切なことだが、経済システムでどうにかなるだろうから、どうにかなるでしょう。ピンカーさんの言うとおりだ。
 いっぽうでは、身体の境界の内側の心の内側の心の境界の、身体機能や脳機能、これらを変えようと、遺伝子のゲノム編集するとか、知的な推論能力とか、アスリート的な体力の強化や、寿命や、そういった計量できる能力を強化するとか、性的なこととか身体の内部的な質的な存在にかかわることとか、他者の心理や感じ方への繊細な想像力であるとかを感じ取る脳内の生化学的なモードをコントロールするとかいったこと。身体の外側の世界は、家電製品とかマンションや戸建住宅、インターネットにつながった自動車や仕事、といった身体の外側を修飾しているものたちはおそらく問題なく統合されていくのだろう。たとえば今現在でも、情報技術は膨大な量の膨大な人の個人情報を収集して分析してひとりひとりの個人の特性をかなりの精度で可視化していくだろう。
 その情報を考慮して自分自身の欠けている穴のようなところを脳科学的にも身体医学的な問題も先端医療技術で埋めることもするだろう。平等の問題やリソースの問題、個人の生き方をどう扱うとかの問題が出てきてしまいそうだ。おそらくそれが一般大衆の興味の中心に来るのかもしれない。そういうことを顧慮していかないと新しい「新しい啓蒙」にはとどかないのかもしれない。
 身体の外側はこれでいい、問題は、身体の境界、身体の内側、と身体の外側を組み替えてそれらを部分的にか、全体的にか、張り合わせて何か全く別な世界のランドスケープを創りだしていくことなのだろう。たとえば、ポピュリズムの問題は身体の外側では解決しないだろう。でもまぁ身体の外側はこれでいいのだろう。
 言い方を少し変えてみると、身体の外側はグローバル化みたいなことで広くて普遍的というような感触がある。ピンカーさんの得意分野というか、彼の書く本のスコープである。「普遍性の世界」みたいなことなので歴史的には立派な男性の世界で古代ギリシアとかからきている。対して、身体の内側の世界は、男で代表されてしまう世界にはほとんどないところ、女子供ということ、男が「大きい」のに対して、女子供は「小さい」ということだろう。しかし、「小さい」ということは逆に言えば、それが見えるということでもあるので解像度が上がってきているということからきているともいえる。見えるものが増えることなので「小さい」とは「広い」ということなのかもしれない。ならば「大きい」というのは「狭い」ということだったのかもしれない。そういうことなので、そこで見えるものがこの世界に存在するものの全てであるのなら、むしろそのほうがよっぽど不思議じゃないかと、あらゆるものを直接に感知できるような完璧な感覚を持っている人間がいるとは到底あり得ないという当たり前のことに気がついて来たことなのかもしれない。
 ピンカーさんの本を眺めているうちにその向こう側のことばかりが気になってしまった。でもそれもこの本の効果でもあるのかな。

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