デジタル化すると情報が順番に流れてくる。紙の本のようにどこからでも簡単に開くのがめんどくさい。どこからでも突っ込こむことができたことがやりにくくなっていくようですね。選挙に期待しましょう。

 通信というのは文書のようなひとつづきの記号をやり取りするという図式で説明される。情報理論という本にはじめに出てくる図式だ。当たり前すぎてこのモデルの図式の印象の与える「狭さ」に気がつかない。こういうのには、ひとが集まってくる様式とは根本的に違っているところがある。整理や管理がしやすいということで、ノイズが分離しやすいわけだから操作するためのパワーを持っているところに情報もカネも集まってくる。いうことなしだよね。ホントに都合のいいことばかりで非対称性はどんどん進んで行く。 
 リモートがすすむときには非対称も進むと頭のどこかにおいておかないと足をすくわれてしまうかも知れないですね。人のあつまれる機会については意識的でないと、いいように操作されてしまいますよね。ご用心ご用心。
 この一方方向性というのは、起承転結、前提から結論、無駄な情報を、つまりノイズをカットして、想像してしまう心の動きを抑制するので、合理性が利益につながる組織にとっては都合がいいのだけど、心の動きを操作しようとしたがるようになるので、そういう意図はないにもかかわらず社会には抑圧されているという気分が広がってしまう。無意識的なイライラな気分がひとりでいる時なんかでは出てくるので安心安全の監視体制があると安心安全できるのでより抑圧が高まってしまうという悪循環にどうにもならない。
 ノイズはリスクに感じられてということだった。まぁこういうのは仕方がないかな。合理性が悪いということはないのだとしても、想像力を結果として抑圧してしまう方に進むこともあるということには意識的でないとダメ。合理性は抽象的で、個人で考えても人が集まって議論してもまともに行われるなら違いはないということなので、抽象的ではないところで考えるやり方が必要なのだけれど、「はて?」。
 
 問題はどこにあるかと考えた。合理性から利益を得るのはまぁいいか。しかし操作するだけで利益を得るのはどうなんだろうか。操作することと合理性には必然的な関連はない。操作することの利益が合理性を超えてしまうことがある。情報を扱うことからくる問題がこういうことを起こす。困ったね。マイナカードみたいな問題どうなるんだろうね。合理性には関心がないというのは驚きだったが実際こういうことが起こるのは考えてみれば当たり前でもある。これに突っ込もうとしてもそれがなかなかに難しい。

 民主的というのは集団の中で議論しようだから、様々な人が集まることがないと機能しないことにいまさら気がついてもどうしようだ。合理性で考えるのがいいと思っていている人は、操作で利益が得られる人とはかみ合わない。権力闘争は合理性の議論を無視して進むから。こうして全体としての利益は損なわれていくのだった。それがまだまだ進んでいくのであった。今度は裏金問題だけど民主的になんとかできるんだろうか。というので選挙なのである。

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