読むことから見ることへ。記述されたものを「読む」という感じから、「見る」という感じに変わっている?

「読む」ということは、いまや遠回りになっているような気がします。文明論的には、まず字みたいなものを知らなくてはならない。字を読む。字が集まったものを読めるようになるのと書けるようになるという循環型社会が成立して発展していくのでした。ただの部族の集団というものから社会というようなひろがりに開けていく。文書や書物を深く読む人がいて、それを説明する人のところに人は集まって、読むしかたみたいなことを見ることで真似する。しかしそれを見ることだとは思っていない。書くことだと思っている。記述を習うこと記述を自分でできるようになること。そういう人になることが要求されてもいる。記述を読むことは記述を書き写すことではない。そこには解釈といったことが入り込むのを排除することは出来ない。これに対して、記述を見るというのであれば話は違ってくるかもしれない。見るのは解釈がなくてもよいからだ。この、「読む」と「見る」の違いは何だろう。これを、「記述」と「図示」ということで考えてみる。
 
 こどもは大人のやることをマネして遊ぶ。字みたいなしるしらしきものを書いて読んで聞かせて聞いてるふりを書いてるふりをして遊ぶ。ここには、自発性を考えてみれば、ここからすべて始まっているようなのだ。もちろんこんなのはそのものとしては全く馬鹿げていて遊びじゃ何の伝達もできない。はじめに面白がって近づいてくるこどもには、文字の記号の共通性というものがわかっていない。しかし、それを見るので文字というものは共通のものであるところに面白さがあるようなので、それを知っているかのように演じて遊ぶ。そういうことをこどもたちどうしで演じてたがいに見ながらマネしながら遊ぶ。それを見て聞いている観客みたいなこどもたちがいる。「読む」ことは、実は、聴くことと喋ることを自分の中で回すことをしているようなものなのだ。
 実はあえて記述するのでは無ければ文字化しなくてもよい。社会の中にうまく埋め込まれるようになれば別に字をよく知らなくても誰かが教えてくれれば、やることをマネすることが出来れば大丈夫である。そういう人はたくさんいた。字が読めない人は昭和のオリンピックの頃あたりにはけっこういた。
 記述の世界の広がりがあって読み書き計算を専門にする人たちが、まるで長大な文書のように構成されて、組織化されて、それが読みだされて、たくさんの人間たちの行動を水路づけて流れるようにする。またそれだけでなく、ある種の流れが自発的に生じて集まって広がっていく。これが記述で可能になる。とはいえ、実際にはこういう「プロセス」が生じていることを事後的に描いているようなことに過ぎないともいえるようだ。だから、こういう「プロセス」を記述、つまり読むというような遠回りなことではなく、図示してみることが出来ればいいというようなことに近づいて、遠回りしなくてもいいように出来そうだ。
 「記述」ではなく、「図示」だ。そういうのがいい。でも「記述」と「記述」を単に並べるだけでは、意味が通らず、❓、だろう。ところが、「図示」と「図示」を並べただけでも、なんとなくわかるというか、それを誰かと一緒に見ながらああだこうだとおしゃべりできる。そっちのほうが、実際の「プロセス」に近いような気がするわけだ。だいたい何をするとかしようとしているとかいうことは事前に少しは想像できるものだ。
 実際は、「読む」ことはしだいに「見る」ことですますことへと移動していく?のかもしれない。そうかなぁ、???。あいかわらず、文書ばかり読まされるような気がするし文書ばかり書かされている気がする。ちがうじゃん!
 でも実際は、読むというよりちょっと見るだけでわかんなければだれか知っているような人に聞ければいいだけだ。コミュニケーションの能力とか、コミュ力とかゆうじゃん。だから、その、「読む」ことはスキップして「見る」だけで直截なコミュ力のほうが今はスマホとかPCとかあるからいいのだ。とはいえ、誤解もあるある。「記述」じゃなくていいから、意味的に文章的に「ただしい」から逸脱してるのがたくさんあっても、そこがコミュ力なのだった。「記述」は元に戻って確認するけど、「図示」と「図示」と並んでつながっているのを見て、それをやると、現在進行形をコミュ力どうしでうまく先に進めることが優先でよいからそっちの方がいいのかもしれない。間違ったとしてもよりましなルートをまた「図示」として見せてくれればいいから。PCとかスマホとかあるわけだし誰かに聞いてみれば。
 実際は、ひょっとしてこういうふうになってるから、意味ない文書を作成また作成していてもちゃんと読まれない文書が膨大にあふれていても問題なーいのかも。

 たまたまテレビを見ていたら朝の番組『あさイチ』に麻生久美子が出ていたので見ていたら、なんとなくこの人は「記述」の人でなくてどっちかというと「図示」の人かもなって見ていて思う。じゃあ「記述」の人って例えば誰だろう。うんとえらい女優さんかな。昔の人にいそうだ。たとえば、杉村春子先生であるとか。余計わからなくなるな。違うことで考えよう。
 
 グルメって人いますね。こういう人は何というか、うんちく魔でうんちく話多くて、事情にやたらと詳しくて、どっちかというと、料理よりもむしろ「ことば」を主に食べる人であるように見える。もちろん本人はおいしいものを食べてるのだけれどそんなに単純なことではない。なぜそうなのかというと、ちょっと説明がいるので、それを書いておきます。
 自閉症スペクトラム障害の研究から出てきた「心の理論」というのがあって、それは自分じゃない他人の立場になって考えることが出来るかどうか、ということをテストする課題から出てきたもので、サリー・アン課題というのが有名で検索すればすぐにわかります。ポイントは他人の立場にたってそれを想像して考えることが出来るかというようなこと。
 
 グルメの人はこの「心の理論」というものを複雑化させたようなものを持っていて、自分より優れた上位の「想像上のグルメの人」のことを考えていて、その「上位者」に自己同一化して、自分の態度を決めているというようなそういう傾向が大いにあるらしいように見えます。それで、こういう人は、「ことば」を主に食べているように見える印象があるわけで、単なる趣味というのではなくて、なんというのか、ある種の「文化」を代表しているように見える、ということです。
 まぁただの食レポのタレントなんかとは根本的に違うって感じ。麻生さんは杉村先生には決して頼めないような「食レポ」だって喜んでこなしてくれるんじゃないかな。という感じ。「グルメ」も「食レポ」も同じ演技といってしまえばそうなんだけど、やっぱりこれとあれではどこか根本的に違う。
 なんというのか、「グルメ」の人の言うことは、判る様でそう簡単にはわからない。というか、そうであってもらっては困る。「文化」なわけなんだよね。「食レポ」はまったく違う。見るだけですべてがわかってしまう。ここでは、「心の理論」なんてどうでもいい。もちろん「食レポ」が文化とまったく関係がないというのではない。これも「文化」なのだ。あたりまえのことだけどついわすれてしまうのは、わたしたち人間は文化なしでは生きるすべがないから、かならず「文化」というものがあるのだ。
 要するに、「記述」の文化と「図示」の文化があるといいたいわけなのだ。それだけでなく、もう「記述」の文化は限界に近づいていて、その記述の能力が現実に合わなくなってきているらしいということなのだ。どういうことかというと、記述の文化は、何もかも正確に記述できると前提されていることがあって、それが不必要に人を傷つけるのかもしれないということだ。よりわかんなくなっちゃったかな。もともと「心の理論」を余計なまでに複雑化した、上位にあるものに自己同一化することに引っ張られていくことに快感を感じるような、自己愛的なエリート層は、本来ならば他者に共感する、ノブレスオブリージュなる心を持っていなければならないのに、それを忘れてしまう。あまりに上を想像しすぎてあまりに自分たち身内の内側だけで時間のすべてを費やすことになっているので、結果としては、「下位にあるものたち」を蔑みバカにして冷酷な心で笑いものにして傷つけてしまうことに気がつかないのである。というほどではないにしろ、本来あった文化というもののもっていた心の広さが蝕まれているということはある。本来の文化とは杉村春子先生が体現していた文化であった。そういう文化が麻生久美子さんの方に引っ越ししてきたみたいだねっということだ。
 不必要な正確さに不必要な複雑さ、これをさらにきれいでゴージャスに飾り立てるのはもういいかなってことでしょう。ちゃんとした文化は麻生久美子さんを好きなようだ。文化が引っ越ししてる間にその前にか、文化は、何かを捨てて何かをどこからか持ってくる。誰とでも普通に話すことが出来るとうようなこと、こういうのは捨てなくてよりアップデートできればいい。なにを捨ててもいいのかなといえばたぶん不必要な敷居の高さかもしれない。しかしオープンであるだけでは危ない。ある種の明確さが必要でそれで誤解が生まれないように出来ればいい。それには図式的な表現の方がいいのかもしれない。いまどういうモードにいるかわかってね、みたいなのは図式的な方がいいだろう。いまは、超リッチなひともそれなりなひともただの庶民もちょっとかわいそうな貧困なひともこも、外見ではほとんど区別がつかない。このことを「捨てる」のはよくない。ただ、ひとりひとりがどういうモードにあるのかは自分の意思で示したりできるのはいいと思う。ちょっと一時的に余裕のある人が、瞬間的ノブレスオブリージュやってみるのもいいかも。逆にちょっと助けてほしいなぁと図示表示できたらいいかもね。ウーバーヘルプ?料金設定されてあってもお礼だけでも設定あってもいいと思う。どうかな。こういうのは図式化に合うでしょう。もちろん、「記述」がなくてもいいというのも違う。たまには手紙書くのもいいかなってこともある。
 「記述」から「図示」へというのは問題を起こすだろうな。ただいらない「記述」に支配され過ぎてやしませんかというのはあると思うでしょう。
  いずれにしても、誰でもが自分の意思みたいなことを「図示」するようにはなるだろう。それがどういう経済的価値を創りだすか、また個人のプライバシーについての考え方がどう変容するのか知る由もない。そのためにはかつてあった「記述」の文化の豊饒さ寛容さ深さに恐ろしさをもう一度考えることになるのはわかっている。だから何を捨ててしまうのかな。それが問題だ。麻生さんいいよね。

 「記述」と「図示」の違いは、文章とアニメーションや実写動画の違いと考えることもできる。アニメーションや実写動画は要するに画像が並んでいるだけのものである。ところが文章はそうでない。単語と単語の関係という構造があって、さらに意味というものがある。これはアニメーションにはないものだ。ある画像が見えて次にまたはいくつか先にまた別の画像が見える。それをどう思うかについては曖昧さはない。ただのパターンで、その並びには文法というような決まった構造はない。しかし、並んでいる順序は重要である。画像Aが来て画像Bが来る、というのと、画像Bが来て画像Aが来る、のでは違う。しかしその違いがどうでもいいこともある。
 画像は、ふつうその中にまた画像を持つので、画像を並べるとその内部の画像も並ぶので、どの内部画像を見ているかによって違ってくる。記述ではこういったことを曖昧さなく表現できるとしてしまう。こうして、一意性という問題が起きてしまう。逆にいえば、だれでもが同じという問題を抱え込む。
 ある画像が一意的な記述によって書かれると、確定してしまって、もう次の画像は続けることが出来なくなる。完結している完全な絵画みたいなもの。
 ところが、一意性には限界があり記述の正確さは全体には及ばない。つまりいつでも次の画像が来るのである。これがユーモアである。これに対応するところの「記述」ではアイロニーが来る。ユーモアでもアイロニーでもない通常のプロセスは法に囲まれている。つまり退屈ということ。
 
 言い方を変えると、アニメーションでは子供も大人も同じだが記述では違う。アニメーションでは子供も大人もユーモアであるものが記述ではユーモアであることとアイロニーであることとに分岐してしまう。これが、法に対する感じ方の違いになる。法はユーモアである、あるいはアイロニーである。どっちなのだろう。それはわからない。
 こどもは痛い目に合った時は泣くか怖がるかその両方かだ。動物みたいなものだといってもいいのかもしれない。おとなはそういうときには泣くか怖がるかするかもしれないが、それよりも悩むだろう。自分で自分を憐れむかもしれない。
 これをぱっと切り替えることが出来る。これがアニメーションのいいところかもしれない。無論そうならない展開のアニメーションもあるがそんなのはどうでもいい。どうして切り替えることが出来るのだろうかというと記述では確定してしまうが図示ではなかにある画像が内部で完結していることはないので、たとえば自分の映っている画像の中に移っているものすべてが自分との関係で完結しているなんてことはないから、なかにある画像はどこかとつながっているのでそっちに切り替わることもある。もちろんこれは比喩だ。もともと画像はすべてがピントが合ってるというものではない。動物の視覚系を考えればわかる。なんだか変な話になってきてしまった。いったん終了します。

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