見出し画像

完全な治療を望むよりも、躁うつの自分と上手く付き合っていくことを考える

感情の浮き沈みが激しい故に、一年の中で、何もできない時がある。何度かこの状態を経験すると、これを完全に治すのは多分無理だなと自分でわかる。投薬治療やカウンセリングを行っても一時的にはよくなるが、なんとなくいずれはまた元の状況に戻るんだろうなという感覚がある。その思いを持っているから繰り返すのかもしれないが、拭い去れる気がしない。

拒んでいてもやってくる鬱ならば、いっそのこと受け入れてやろう。

一年の中で何もできなくなる時期は長くて2ヶ月ぐらいある。文字通り何もできない。朝は起きられないし、夜は眠れない。トイレに起きるのも面倒くさいし、ベットで横になっているのも疲れる。何もしたくないけど、何をしても不満が募る。食欲も湧かない。普段なら食べたいものが自然と頭に浮かんできて、それを食べにいくという行動ができるのに。何も浮かんでこない。いっそこのまま何も食べず、餓死したいぐらいだ。太陽を避け、人を避け、世界を避けて生きている。

何もしたくないはずなのに、そんな自分から早く抜け出したいのに、何もできない。周りに迷惑をかけている自覚と同時に、自分など取るに足らない存在なのでそのまま放っておいてくれればいいのにとも思う。感情の波が忙しなく寄せては返す。

本を読んでもただ文字を追っているにすぎず、その内容は入ってこない。些細な音にも敏感になって、集中できない。状況を変える一手を持っているはずなのにそれを打たない、打てない。

徒らに時間だけが過ぎる。

どこかに行きたい気持ちがあるのに一日中布団の中から抜け出せない。何もかも捨て去ってしまいたい。何もいらない。SNSを遠ざけて、スマホすら電源を切る。外部との接触を絶っても何も変わらないとわかっているけど自分の殻に籠っている方が楽なのだ。何も知らない、何も触れない方が楽なのだ。本当はそれではダメだと知っているけど、そんなことどうでもよいのだ。あとで自分の首をさらに締めつけることになるのに、どうして、そうしてしまうのだろう。

今の状況から抜け出せない不安に押しつぶされる感じはない。むしろ、いずれはこの状況からは抜け出せるだろうとは思う。ただ、抜け出してもいづれまた同じ状況になる気がしてならない。一時的な鬱状態からは抜け出せても、躁鬱のサイクルから抜け出すことはできないだろうという諦念が自分から覇気を奪っている。

何かの拍子にこの鬱とした気持ちから抜ける。その時はもう二度と鬱になんてならないと思うはずだ。自分で期待して自分で裏切る。その繰り返しを経験しているともうどうでもよくなってしまう。これが怖い。気分が良くても、悪くても、そのどちらをも俯瞰している第三者的な自分がいる。

回復している状態でも純粋にそれを享受できない。いずれ訪れるはずの鬱状態が頭の片隅にいつも存在している感覚がある。ちゃんと治さなければいけないとは思うけど、治るように思えない。自分の心の奥の奥、扁桃体の奥の奥に潜んでいる病魔の根源を治すことができるとは思えないのだ。

日本にいれば夏に台風がくるように、自分が生きている限り鬱もやってくるのだ。仕方ない。諦めも肝心だろう。気分が落ちて、何もできなくなったら、それを受け入れよう。その心づもりをしておこう。正直、鬱状態の時はどんなありがたい言葉も、経験者からの助言もお医者さんの診察も、全部どうでもいい。響いているようでなにも響いていない。むしろこんな自分なんかに気を遣ってもらって、時間を割いてもらって、申し訳なさしかない。放っておいて欲しい。自分で自分に期待も希望も持っていないのが鬱の状態であり、そんな時にいくら外部から何か施しを頂いても全て徒労に終わってしまう。だから、自分も他人も何もしないのが一番いい。「いや、でも」と周りは思うかもしれないが、なにもかもどうでもいいと思っている以上、なにも意味はないのだ。

だから、一生付き合っていかなければならないように思っている。

鬱を治すよりも、それと上手く付き合っていく方が賢明で、現実的な方法だと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?