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還暦と「おまけ」と本当の人生キャリア

ちょっと前に60歳になった。
「還る暦(こよみ)」とは、なかなか的を得た言い方だと、
この年頃になると感じ入るところがある。ところで「還暦」というと、
私には思い出すことが二つある。

一つは父の還暦にまつわる話。もう30年前の話。
その年の正月に帰省していた私が東京に戻ろうと玄関を出るときに、
母が私を呼び止めて耳打ちした。
「今年、お父さん還暦だから...。わかっとる?」。
は? ん? カンレキ? 還暦とはそれほど大事な行事なのか?
母の一言がなければ意識することもなかったが、これはつまり何かしら節目に相応しい、ちゃんとしたお祝いをするように、というプレッシャーだろうと私は解釈した。その年の秋の父の誕生日まで、どうしたものかと考えあぐね… 、例えば「赤いちゃんちゃんこ的な物」でなく、何かスペシャル感と
変化のあるものをと思い、父の誕生日直前になって、都内の駅に行き、
JRの「フルムーン夫婦グリーンパス」を購入して実家に郵送した。
それは1993年のはずだから、wikipediaによると、二谷英明・白川由美夫妻がCM出演していた頃だ。(ちなみにフルムーン・パスは今もあるらしい)。
それからしばらく経って後、母が言うには、「お父さん、フルムーンの旅行券、期限が切れるからと、駅に持って行って換金してきた」。
ふぅ~む、さもありなん。驚くことではない。

私が子どもの頃から、父は旅行の約束をしては仕事を理由に何度もドタキャンした。本当に多忙で休みが取れないのか、職場で休暇を言い出し難いのか、あるいは、休んで出かけるという一過性のこと(経験)に大した価値を感じていなかったのか。いずれにしても父には、遊びに興じる勇気が欠けていた。そのための才知にも欠けていたと思う。

当時の私としては、かなり高価な贈り物であった。
母の一言を受けて数か月真面目に思案しての選択だった。あんな父でも今度ばかりは旅行に行くかもしれないと、少しばかり期待した。しかし、彼は行かなかった。行きそびれた。当時は55歳定年が一般的だったけれど、父は嘱託として継続雇用され、還暦を過ぎても変わらず会社に通っていた。そして父は私には何も言わなかった。母が私にそのことを愚痴らなければ、換金は私の知るところではなかった。そのお金で何か美味しいものでも食べに行ったのなら良いのだが、そこのところは、私はもう尋ねもしなかった。

やがて、父の3歳年下である母の還暦イヤーを迎えた。それが2つめの還暦にまつわる思い出だ。この年の夏に弟が結婚することになり、一家の話題はその準備に集中する中で、母はだんだんと体調を崩した。弟の結婚式を無事済ませた翌月に母は入院し、あと2週間で還暦を迎えるというところで、この世を去った。それから数か月、私は会社にいても電車に乗っていても、ふとしたきっかけで突発的に涙が止まらなくなるという現象を経験した。それは、母のことを思い出して哀しいといった感情ではなく、何らかの不条理に理解がついて行けず、混乱していたように思う。その頃に、そこから抜け出そうとして、自分なりにじわじわと導き出した原則のようなものがある。
それはこうだ。

「60歳を過ぎて、幸運にも健康だったなら、そこから先は『おまけ』の人生と思え」。

その当時の経験と、この原則に、どんな論理的関係があるのか、全くわからない。今となっては思考の筋道が辿れない。でも、そんなことはどうでもよい。大事なのは、とにかく当時どういう理由かわからないけれど、こう考えることで救われるような実感があったということだ。それで私はそう考えることにした。その「原則のようなもの」の含意はこうだ。

 もし、60歳に達したころ、まだまだ元気で活動的でいられたら、
 それは絶対的に幸運なことであり、それは神様から戴いたギフトである。
 そのことを肝に銘じておかねばならない。
 それは〈おまけ〉であって、プレミアムだ。であるからこそ、
 どう過ごすかが真剣に問われる。
 働くことよりも真剣に応えるべき課題だ。
 文字どおり童心に還り、面白いと思うことを遊び、遊びきる。
 それが、すなわち、正しいギフトの受け取り方なのだ。

その頃の私はまだ30代半ばで、〈おまけ〉の蓋をあけるのは、まだ遠い先のことだった。母がいなくなってから、父がぽつりと言った。
「お前にもらったフルムーン旅行、あのとき行っておけば良かった」。
(今頃言うなバカヤロー、だ)。

そしてついに、私の還暦がカレンダー上に見えた。
いよいよ〈おまけ〉ステージに到達する。
私は絶対的に幸運だということだ。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
であるからには、正しくギフトを受け取る義務がある。
けれど私には、会社員生活に踏ん切りをつけ、
自律的に「遊ぶ」毎日に踏み出す勇気と才知が、まだ、ない。
あのバカヤロー親父と大差がないということだ。これは本当に悔しい。

うちの会社の定年は65歳。足元のレールはあと5年も続く。
他律的に〈おまけ〉の箱を開けさせられたら、
それは、わくわくして〈おまけ〉の箱を開けるのではなくて、
食べつくしたキャラメルの空き箱を眺めるのに等しい。

この年頃になるとSNS上に「お年頃」に向けた情報が勝手に流れてくる。「定年後」に備えて投資しましょうとか、リスキリングしましょうとか、
すべては経済還元的な指標から一歩も譲らぬ眼差しで「セカンドキャリアの充実」を呼びかけてくる。東京都は「セカンドキャリア塾」を開き、定年前後世代に向けて「心得」と「ノウハウ」を提供し、さあ「生涯現役をめざそう」と旗を振る。中小企業には「シニア人材を戦略的に活用しよう」と雇用を呼びかける。「人材」とは、(私以外の)誰かの何かのリソースだ。
人材育成を生業としてきた私が言うのは180度の手のひら返しだが、
だからこそ思う。誰かの何かのリソースでいることからは、もう降りたい。

なぜなら〈おまけ〉は私のものだから。
私は私の〈おまけ〉と向き合う義務があり、
これを「どう遊ぶのか」ということこそが与えられた問題で、
大事なことは「ちゃんと遊べ」ということで、
そこに必要なのは「ちゃんと遊ぶ」勇気と才気だ。
もちろん健康であることは〈おまけ〉の前提だ。
そしてなにしろ、何かを余程好きでなければ、ちゃんとは遊べない。
ここまでのすべての経験は〈おまけ〉のためにあったのだ、
とすると、私は〈おまけ〉によってこそ試される。
ならば、本来キャリアの目標はそこにある。
遊べよ、自分。なのだ。




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