見出し画像

【わたしと音楽①】親の憧れを子供に託すな

音楽との付き合いは古く、ヤマハ音楽教室へピアノを習い行ったのが始まり。「習いたい」と言ったのではない、母親に「バレエとピアノどっちがいい?」聞かれてピアノと答えた…らしいのだけど、何せ当時3歳、憶えているわけがない。

母が子供の頃どちらも習っていなかったところを見るに、自分の叶えられなかった憧れを娘に…という至極単純な理由だったのだろうと思う。それを裏付けるように母はレッスンには必ず付き添い、先生の教え方を真似るようになった。家での練習にも過剰なまでに口出しをし、励ましたり褒めたりは一切しない代わりに上手くできなければ平手で殴った。まるで取り憑かれているような鬼の形相であったことを今でも憶えている。

当時バブル期なのも手伝ってかピアノをやっている子は周りにたくさんいた。住宅街のあちこちからピアノの音が聞こえる環境で、みんな「ブルグミュラーが終わった」だの何だのと日々競っていた。わたしは人より少しだけ上達が早かったものの、そんな小競り合いに興味がなかったのだが当然母がそれを見逃すはずもなく、「○○ちゃんの家からあの曲が聴こえてきた!」といちいち報告してきては、「なんであなたは上手く弾けないの?」と嫌味を言った。そんな母であるにもかかわらず、期待に応えたい、褒めてもらいたい、できないのは自分の練習が悪いから・足りないからだと思っていた当時のわたしはとても健気で可愛い。

しかしその割には「ピアニストになんかなれない、ピアノの先生が関の山」「音大はお金がかかるから行かせられない」などと日々言っていた。ピアノを習う子供は皆一度はピアニストやピアノ講師に憧れるものであるが、わたしにはそれすら許してもらえなかった。今となっては母がわたしに何を求めていたのかさっぱり分からない。殴られて流した血の意味が未だに謎である。

さらにわたしは転勤族だった。勉強が遅れるのと同じく先生が変わるというのはとても大変なことで、相性もあるし、自分のやりたいピアノを理解してもらうのにも時間がかかる。当然進みも悪い。その間に周りは同じ先生のまま、どんどん先へ進んだ。中学で2度転校しているので、受験へのプレッシャーも相まってストレスはピークだったように思う。現に当時の記憶がほとんどない。

そこからは競争に脱落した落ちこぼれのような視線を母から向けられながら惰性で続けた。多くの子供にとって情操教育であるはずの音楽が、もはや意味を成さなくなっていたのは想像に難くない。

思えば初めからあまり楽しくなかったのかも知れない。親が持ってきた弾きたくもないポップスの楽譜を無理やり弾かされたこともあった。「親がお金を出してるのだからこのくらい弾いて聴かせて当たり前」とよく言っていた。小学生が何故にテレサ・テンや演歌を弾かなければならなかったのか。クラシックを弾くのが好きで、他の子なら弾きたがるアニメソングなどのポップスにも一切興味がなかったわたしに、歌詞の意味さえ分からない、分かるはずもない曲を弾かされるという仕打ちはそれは屈辱的なものだった。それでいて「感情が入ってない」などとこき下ろすのだから、今思えば完全に虐待である。

そんな不遇のピアノ生活を17年続け、教わった先生が10人を数えた頃、短大卒業を機にピアノはすっぱり辞めた。残ったのは幼少期に培われた絶対音感のみであり、ピアノに対しての未練などは一切なかった。それまでの間、どんなに嫌でもレッスンを一度もサボらなかったことだけは自分でも褒められて良いと思う。

自分が子供の頃にやりたくてもできなかったことを子供に託すこと全てが悪いとは言わない。しかし、その憧れが執着になってしまっていることに気付かず、その熱の傾け方を間違えると、感性も心も柔らかい子供はすぐに歪むのだ。あまつさえ親を嫌いになってしまうのである。親でないわたしが人様の子育てに口出しするつもりは毛頭ないが、どうかそんな不幸な子供が1人でも減ることを願うのみである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?