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小説『クララとお日さま』カズオ・イシグロ/土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)~AIロボットと太陽信仰~

カズオ・イシグロはこれまで読んでこなかった。『わたしを離さないで』はドラマ化されたものを観たことはある。臓器提供するために作られたクローン人間たちの施設を舞台にしたちょっと哀しくせつない物語だった。

この小説は、ノーベル賞文学賞受賞(2017年)後の第一作にあたる。AIロボットの視点で書かれた近未来世界の小説である。太陽エネルギーで動くAF(アーティフィシャル・フレンド/人工親友)と呼ばれるロボットのクララが、街中の販売店に並んでいる場面から始まる。AFは人間の子供の「親友」になるために開発された人型ロボットである。クララが販売店の窓から観察する街の描写、子どもたち家族がAFを買いに来る場面やクララより新型のB3型AFのことなど、クララの視点で店内の様子や街のことが語られていく。会話のやり取りがそれほどあるわけではないのに、そのロボットのモノローグだけで面白いのだ。その描写力の巧みさにまず驚かされた。

<以下、ネタバレがありますのでご注意ください。>

この小説は、AIロボットという科学技術の最先端にある存在が、太陽信仰という原始的な宗教を信じる「科学と宗教」というミスマッチな関係を描いているところが面白い。クララは、ジョシーという少女の家庭に買われ、郊外の家で暮らすことになる。ジョシーは病弱で、健康に問題を抱えている。ジョシーの姉のサリーはどうやら病気で亡くなってしまったようだ。母親は夫と離婚して一人でジョシーを育てており、ジョシーにもしものことがあることに耐えられない。そこでAFのクララにジョシーを学習させて、ジョシーが死んだとしても、ジョシーそのものになってもらうことを秘かに企んでいた。ジョシーにもそのことを知られぬように、肖像画を描かせるといってカパルティという科学技術者にジョシーを研究させていたのだ。AIロボットと人間との違いは何か?人間のコピーは作れるのか?ロボットに人間の「心」は再現できるのか?そんなテーマを孕みつつ、近未来の格差の問題も描き出す。子どもたちには「処置」をほどこした子供と、「処置」していない子供がいる。ジョシーの隣に住むリックという少年は、家の事情があって優秀な子供でありながら、「処置」をしていない。その「処置」によって大学に進めるかどうかなど、その後の人生に格差が生まれているようだ。そして人間とロボットの格差もまた存在する。ジョシーの家政婦であるメラニアさんは、自分の仕事が奪われるかもしれないAFクララに対して敵意を持っているし、ある主婦はクララの扱いに困り、「掃除機みたいに扱えばいいの?」などと言ったりもする。

そんなクララが病気で日々弱っていくジョシーのために、「お日さま」に祈るのだ。クララはかつて販売店の窓から見た光景が忘れられない。物乞いのホームレスと連れの犬が死にそうだったのを、「太陽の力」で回復させたと信じているのだ。「お日さま」にはそういう特別な力があると信じているクララは、太陽が沈む前の休憩所になっている「マクベインさんの納屋」まで行き、「お日さま」にジョシーの命を救ってくれるように祈るのだ。これは原始的な素朴な宗教ではないか。なぜAIロボットに「祈る」という人間的な振る舞いが出来たのか?クララは観察力が高く、共感力が強いロボットだとされている。ジョシーのためになることがロボットの最大の使命であると考えたクララは、ジェシーそのものになることよりもまず、ジョシーの命を救うことを考える。そして太陽の力に縋るのだ。自分の力ではどうにもならないことを大きな存在に縋ること、祈ることから宗教は生まれる。クララにとって、それは「お日さま」だった。太陽の力をエネルギー源にしているAIロボットだからこその発想ということか。そして「お日さま」は大気の汚染を嫌っていることから、「汚染を生み出す機械を破壊すること」で、願いが成就するとクララは信じ込むのだ。宗教的な完全なる思い込みである。宗教が大きな力になると同時に、迷走する危険性もここでは描かれている。だから宗教は他者を邪悪なる存在と信じ込めば、宗教のために平気で人を殺してしまうことが出来るのだ。

この小説は、AIロボットのクララが信じた「お日さま」の力が奇跡を起こしたかのように、あるとき部屋に特別な光が降り注ぎ、ジェシーの健康状態は回復するのだ。クララの祈りによって奇跡は起きるのだ。その後、健康になったジェシーは大学へ行くためにこの地を去り、AFのクララは役目を終えて捨てられて小説は終わる。

ロボットが「太陽に祈る」というあり得ないファンタジーを描いているところがこの小説の面白さだ。誰かのために「祈る」というシンプルな思い、そんな自主的な共感力をロボットが持つことなどあり得ないと思うのだが、ロボットに何らかの「心」があるように思うってしまうのは人間の方なのだ。ロボットであるクララは、最後にかつての店長さんに会って言う。

「カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョシーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかった――そう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョシーの中ではなく、ジョシーを愛する人びとの中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした。(P478)

AIロボットにはコピーできない「特別なもの」は、その人を愛する人びとのそれぞれの中にある。同じようなコピーは作れたとしても、それはそれぞれにとっては「違う」ものになるとカズオ・イシグロは描いている。人と人との関係の中にこそ、再現できない「特別な何か」がそれぞれにあるのだ。

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