映画『ある男』関係性の中にこそある自己がすべて

昨年の2022年で評判の良かった日本映画だ。「死んだあの男は誰だったんだ?」という謎の男のアイデンティティもの。行方不明者や失踪者、記憶喪失ものなど、謎の男を扱う題材は昔から文学や映画などでいろいろと扱われてきた。そこには「自分とは何者なのか?」という誰にでもある「永遠の問い」が含まれているので、ドラマ性があるのだ。誰だって、「自分とは何者なのか?」と問われて答えられる人はいない。人は関係性の中にしか、自分など見出せないものだ。親しい人にも見せない意外に一面を誰でも持っているし、知っているつもりの人の全てを知ることなど出来ない。たった一つのアイデンティティや個性など幻想でしかないのだ。そんなテーマをきっと平野啓一郎は描いているのだろう。未読だが、夫となり、父となった死んだ男をめぐる謎を、複雑な関係性の中で映像化した。芸達者な役者たちが勢揃いしており、そのお互いの探り合いのような芝居が見応えがある。特に戸籍を売買して刑務所に服役している男を演じた柄本明が凄い。謎の男を捜す弁護士役の妻夫木聡を煙に巻く。その柄本明の演技が圧巻だった。

石川慶監督は、『蜜蜂と遠雷』を見ているだけだ。評判の良かった『愚行録』は未見。この複雑な物語を丁寧にまとめている。脚本の向井康介は山下敦弘監督作品などで名前を見ていた。原作を映画の2時間の尺にまとめるのは大変だっただろう。やや仲野大賀演じた温泉旅館の兄弟の葛藤、本物の谷口大祐(仲野大賀)がなぜ戸籍を売ってまで人生を変えたかったのかがわかりにくかった。

戸籍を変えてまで人生をやり直したい出自や過去。安藤サクラが、夫の過去の事実を知った後で、「知らなくても良かった。夫がここで私や息子や娘と一緒に暮らしたのは事実なのだから」と納得する気持ちは、偽らざる真実なのだろう。人は出自や過去によって人生を決められるものではない。過去から自由になる可能性は誰にでもあるはずだ。人は変わることができるという希望。関係性において真実があれば、やはりそれは真実なのだ。窪田正孝演じた偽物の谷口大祐は、安藤サクラや息子や娘たちにとって、いい夫であり、いい父であった。そのことは間違いないことなのだから。

妻夫木聡演じる弁護士が「谷口大祐」の真実を探し求めながら、相手との関係によっていろいろな面を見せ、変わっていく姿がバランス良く描かれている。在日朝鮮人という出自、義父や妻の考え方とのズレ、柄本明に見透かされる自分、谷口祐介の兄・眞嶋秀和の言葉への怒り。微妙な距離感を演じていた妻の真木よう子、嫌な男役の眞嶋秀和、同僚の弁護士の小籔千豊、ボクシングジム会長のでんでんなど、いずれも芸達者が脇を固め、映画に厚みを加えていた。

ただ妻夫木聡のラストシーンのバーは、なんだかウィスキーのCMみたいになってしまっていた。

2022年製作/121分/G/日本
配給:松竹
監督:石川慶
原作:平野啓一郎
脚本:向井康介
撮影:近藤龍人
照明:宗賢次郎
録音:小川武
美術:我妻弘之
編集:石川慶
音楽:Cicada
音楽プロデューサー:高石真美
キャスト:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、きたろう、カトウシンスケ、河合優実、でんでん、仲野太賀、真木よう子、柄本明、小野井奈々

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