『太陽はひとりぼっち』ミケランジェロ・アントニオーニのミューズであるモニカ・ヴィッティの不安定な表情~
アラン・ドロン追悼上映と言うことで、劇場でかかっていて観た。昔のようにミケランジェロ・アントニオーニの名前もあまり聞かれなくなった。フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニなどのイタリア映画の巨匠たちの作品が昔は名画座でよくかかっており、観に行ったものだ。それぞれの独特の世界観に圧倒された。そのなかでも「愛の不毛」などと言われたミケランジェロ・アントニオーニの映画は好きだった。たいした物語が起きない男と女のダラダラとした虚無的な世界になんだか惹かれていたのだ。
久しぶりに観た『太陽はひとりぼっち』。やはりミケランジェロ・アントニオーニの映画は、モニカ・ヴィッティの魅力に尽きることが分かった。『赤い砂漠』も『情事』もモニカ・ヴィッティの魅力に溢れているし、『夜』にも出ている。モニカ・ヴィティは、ミケランジェロ・アントニオーニには欠かせないミューズなんだなとあらためて思った。
この映画は、婚約者のリカルドとビットリア(モニカ・ヴィッティ)が部屋で別れ話をしている場面から始まる。部屋の中で、男からヒラヒラと逃れるように身体をかわし、モニカ・ヴィッティは男の思いをはぐらかす。夜通し話し合った結果の別れ。しかし、男が納得する理由など女にはないようだ。「わからない」と女は言う。部屋を出て、人気のない朝の近未来的な住宅街を歩くビットリア。そして近くの自分に部屋へと帰って行く。その後、投資家の母が通う証券取引所で株式仲買人の若いピエロ(アラン・ドロン)と知り合う。時間を惜しむように株の売買で忙しないピエロ。ビットリアと店でお酒を飲んでいても、電話をしたり人と話をしたり、なにかと動き回る。「落ち着きのない人ね」とビットリアに呆れられるほど。ビットリアは株の売買やお金の動きなどにあまり興味がない。
あるとき株が大暴落し、母も大損をするし、多くの投資家が大金を失う。ピエロが夜にビットリアに会いに行ったとき、近くに止めてあったスポーツカーが酔っ払いの男に盗まれて水没。男も金を失って自殺したのか。そんなことをキッカケに次第に親しくなっていく二人。ピエロと恋人同士のようになって笑い転げて楽しそうな顔と、アンニュイで無表情になるモニカ・ヴィッティのコロコロと変わる不安定な表情が見どころだ。男に「どうしたいんだ」と問われ、「まったく愛さないか、もっと愛するかしたいの」と言う。愛を強く求めていても、充足感は得られない虚無。二人が「今夜も、明日も、明後日も、その次の日も、会おう。いつもの場所で」と言い合って別れたのに、二人がいつも会う建築中の建物の前に溜めてあったドラム缶の水はこぼれ、そこには誰もいない。街灯や建物などの虚ろな街の風景が映し出され、男が読んでいた新聞には「各国が核開発の競り合い」、「見せかけの平和」と皮肉った記事が載っている。ラストの終り方が唐突で、意味ありげだ。そんなメッセージ性がちょっと古臭く感じた。
ただただ、モニカ・ヴィッティの表情や仕草を見てるだけで満足な映画だ。
〈追記〉
それにしてもあのガランとした人工的で無機的な街で、ベビーカーを押す老婆と通り過ぎる古い馬車が2度も登場する。最後にも出てくる。あれはなんのメタファーなのだろう?意図的な仕掛け、観念的な映像を作る監督だったのだろう。
1962年製作/126分/イタリア・フランス合作
原題または英題:L'eclisse
配給:KADOKAWA
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
製作:ロベール・アキム、レイモン・アキム
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ、オティエリ
撮影:ジャンニ・ディ・ベナンツォ
音楽:ジョバンニ・フスコ
キャスト:アラン・ドロン、モニカ・ビッティ、フランシスコ・ラバル、リラ・ブリナン、ルイス・セニエ、ロッサナ・ローリ