「花束みたいな恋をした」が共感できるワケ

坂元裕二脚本ということで観に行った。監督は土井裕泰。最近も野木亜紀子と組んで「罪の声」を監督している。TBSのドラマ演出家だ。だが、この映画の魅力は、台詞にこそある。

二人のモノローグの重なりで、二人の気持ちが表現されていく。やや理屈っぽく過剰とも言えるその言葉が、やり過ぎでもあり、独特のリズムと世界観を生み出している。二人が出会うキッカケとなるのが、押井守だったり、二人の距離が縮まっていくのが、列挙する作家たちや作品の名前だったりする。今村夏子の「ピクニック」、穂村弘、長嶋有、柴崎友香、漫画の市川春子「宝石の国」、「ゴールデンカムイ」、滝口悠生の「茄子の輝き」、いしいしんじ、堀江敏幸、小山田浩子、円城塔、多和田葉子、小川洋子、舞城王太郎などなど。そんな固有名詞が気になって、「それ、読んでないなぁ」と思いながら観ていた。

映画の半券を同じように本の栞にしたり、同じコンサートに行きそびれたり、恋が始まるときは、なんでも奇跡に思える。共感出来る。他の人は知らないのになんでそれ知っているの?こんなに同じ気持ちになる人は他にいないかも?なんて錯覚に囚われる。まさに恋は魔法だ。そんな奇跡のようなトキメキを描きつつ、時間の経過とともにそれが変わっていく残酷さも描いている。そういうところが共感を生んでいるのだろう。

朝帰りした有村架純が自宅に帰り、家族の日常でこの思いを「上書きされたくない」と呟く場面がある。その思いが愛おしい。この映画の魅力は、そんな二人の登場人物が愛おしく描かれているところにある。菅田将暉もまた必死に一緒にいられるように自分を変えて努力する。誰にでも経験したことのあるトキメキと、それが持続しない残酷さこそがリアルなのだ。別れの場面のファミレスで、出会ったときの二人の分身のようなカップルが出てくる。そのあり得ない設定ながら、その過剰さがせつない。

雨に濡れたあの夜、髪をドライヤーで乾かしてもらったドキドキ、二人で見つけた焼きそばパン、駅での待ち合わせ、コーヒー片手に夜道を歩き、ベランダで一緒に眺めた多摩川の景色。ともに食べること、歩くこと、ともに観ること。そして共感したものを語り合うこと。そんな日常のささやかな一つ一つこそが、かけがえのない輝きであり、幸福そのものであったはずなのに、いつしか忙しさにかまけて、見失い、忘れてしまう。

出会った時から、別れを内包しているという話が出てくるが、誰もが出会った時のトキメキを宝物にして過ごしているのかもしれない。恋愛初期のトキメキは、決して更新されない。最高潮だ。その想い出を抱えながら、ケンカをし、すれ違い、時には愚かにも浮気をする。菅田将暉が焼きそばパンの店の閉店のメールをやり過ごしたことを責めても仕方がない。人は愚かなのだから。同じ気持ちではいられない。繰り返される二人の時間だけが積み重ねられていく。だから、最初の頃の二人の分身に出会うことは、誰にとっても泣きたくなるほどのせつなさだ。決して戻れない、取り戻せない瞬間だからだ。ファミレスがこんなに恋愛映画のドラマチックな舞台になったことはない。

有村架純の「楽しかったね」の笑顔がたまらない。なぜか中島みゆきの「化粧」という曲が頭のなかでリフレインされている。



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