ヌーヴェル・ヴァーグの魔術師ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の自由さを堪能

ヌーヴェル・ヴァーグの中心的存在の一人である映画監督ジャック・リヴェットの映画は、日本ではあまり見ることができなかった。私は『美しき諍い女』(1991年)ぐらいしか見ていない。だからリヴエットの映画がまるでイメージできなかった。ジャック・リヴェットは『カイエ・デュ・シネマ』の二代目編集長エリック・ロメールに続いて、1963年から1965年まで三代目編集長を務めた。CSの洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」でジャック・リヴェット特集が組まれ、何作か見ることができるので順次レビューを書いていく。

まず最初に見たのがこの作品。3時間13分と長い作品なのだが、かなり荒唐無稽。『不思議の国のアリス』のような「魔法と夢と冒険」と作品解説で形容されているが、まったくその通り。映画の夢に溢れており、リアリティや物語性などかなり無茶苦茶。こういうヘンテコな映画を見慣れていないと、「なんなんだ!?」と混乱するばかりだろう。観客を混乱させて楽しませているような映画なのだ。映画はどこまでも自由だ。自在に時間空間を飛び越える。

冒頭は公園のベンチで赤毛の女ジュリー(ドミニク・ラブリエ)が本を読んでいる。魔法に関する本のようだ。そして地面に魔法陣のような模様を描いている。そこへ現れる一人の女セリーヌ(ジュリエット・ベルト)は、サングラスとかショールとか人形とかいろんなものを落としていく。それに気づいて拾ったジュリーは、セリーヌを追いかける。追う女と追われる女の無声アクション映画のように、セリフは何も交わされぬまま、ジュリーはひたすらセリーヌを追いかける。それはまるでゲームや遊戯のようだ。そしてホテルに入ったところで一日目が終わる。「しかし、次の日の朝~」という字幕とともに、翌日の二人の女性の物語が始まる。ジュリーはセリーヌとカフェで接触し、今度はジュリーの仕事場である図書館にセリーヌがやってきて、追う女と追われる女の立場が逆転する。そして足を怪我したセリーヌがジュリーの部屋の前に現れ、二人はいつの間にか仲の良い友達同士になって一緒に暮らし始める。ブラッディマリーのカクテルを作るジュリーと飲みたいセリーヌの思いが交錯する。

さらに「しかし、次の日の朝~」、ジュリーの婚約者からの電話に出たセリーヌが、ジュリーヌに成り代わって恋人とデートをし、相手を怒らせて別れを告げられてしまう。このようにジュリーとセリーヌはたびたび入れ替わり、混乱が起きる。マジックショーの仕事をしているセリーヌは世界ツアーを持ち掛けられていたが、別の日にジュリーが代役でマジックの代わりに歌を歌い、客を罵り舞台を無茶苦茶にして、二人の入れ替りの混乱は繰り返される。

そして、セリーヌが怪我をしたという謎の館にジュリーが潜入し、そこから出てくるとなぜかフラフラと意識朦朧。口の中には飴がある。その飴を舐めると、奇妙な映像がフラッシュバックされ、館の中にいる一人の男と金髪の女と青い服の黒髪の女と女性看護師と一人の少女が出てくる。短い映像がフラッシュバックされ、最初は何が何だか関係がよくわからない。どうやら館の中で繰り広げられるもう一つの物語があるらしいことがわかってくる。翌日、今度はセリーヌが謎の館に侵入し、同じようにフラフラと出てきて、また口の中に飴がある。どうやらその飴を舐めると、謎の館の物語の映像が見られる仕掛けになっているらしい。断片的な映像は繰り返され、前後が再構成されて物語が分かってくる。

後半は、二人は飴を何度も舐めながら、謎の館の物語を演劇のように観ることになる。主役の二人は脇役になる。しかし飴が無くなると、二人は図書館に潜入して魔法の本を盗み、秘術で水を作って館での物語に入り込む。セリーヌとジュリーは再びメイン舞台に乱入する。突然ミュージカルのようになったり、看護師を二人で交互に演じたり、とにかくやりたい放題。

背中の赤い手形の跡、謎の館で起きた殺人事件のミステリー、さらにその幻想(亡霊たち)世界に乱入して、殺人事件から子供を救出する現実の二人。謎の館の出来事は、ジュリーの過去の隣の館に住んでいた子供の思い出と結びついているようなのだが、それがどうした?という感じ。

無声映画の追っかけっこから始まり、ハリウッド映画によくあるような喜劇の入れ替わりのドタバタ、ミュージカル、殺人ミステリーにメロドラマ、そして魔法に冒険。ゾンビのような顔を灰色に塗った亡霊まで登場させて、水辺をボートでゆっくりと通り過ぎていく。最後は最初の公園に戻り、ベンチの女と通り過ぎる女が入れ替わって登場して終わる。館の人形のような亡霊たちと対照的に楽しく興じる女二人がいい。自由闊達な振る舞い。心理描写など無視して、ひたすらはしゃぐ二人が見ていて楽しい。奇妙な魔法の夢と冒険ファンタジーだ。

「たいていの場合、物語はこんな風に始まった」という冒頭の字幕は、冒頭の公園の場面を想起させる。落とし物を拾うという偶然の出会い。それは公園にいる猫のようにありきたりで、どこにでもある偶然だ。その偶然から魔法の世界を描くのが映画だ。キッカケは猫だったり、落し物のサングラスだったりするだけだ。謎の館のメロドラマは、古い演劇的な振る舞い。そこに女性二人は侵入してぶち壊し、その虚構性を暴いてしまう。それは映画そのものの虚構性を暴くことにも通じている。円環と反復と入れ替わり。そして虚構と現実の相互乗り入れ。そんなリヴエットの企みが散りばめられている映画だ。

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