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『なにごともなく、晴天。』吉田篤弘(中公文庫)~荒野のベーコン醤油ライスが食べたくなる~

吉田篤弘の小説はこれまでに好きで何作か読んでいる。『つむじ風食堂の夜』(本作は篠原哲雄によって映画化もされた)、『小さな男*静かな声』『水晶万年筆』『それからスープのことばかり考えて暮らした』などだ。漫画家で大好きな森雅之(北海道出身『ペパーミント物語』『散歩しながらうたう唄』)のような、余白がいっぱいあって、なんとなくホッとするような文章に魅せられる。

久々に読んだ吉田篤弘の文庫本。相変わらず余白がいっぱいで、日常の淡々とした物語の中に、人生への親愛なる思いが込められていて、魅力的な人物が集まってくる。著者も「あとがき」で触れているように、『つむじ風食堂の夜』の女性版といった趣きだ。鉄道が走っている高架下に住んでいる人たち。特に今回は風変わりな男たちではなく、女性たちの物語を書きたかったのだとか。「男たちは役に立たず、あまりに図々しくて、自分のことしか考えていない」(あとがきより)と見切りをつけたのだそうだ。そして、東北大震災直後で余震が続いていたときに、『サンデー毎日』から小説の連載の話が来て、「揺れている」日々から連想して、古びた高架下に住む住人たちの暮らしの物語にしたそうだ。世の中は「なにごともなく」どころではない想像を絶する震災などの最悪の事態が起きているが、「その不安な日々をはね返すような表題を、ひとつのまじないのようなものとして掲げてみようと思ったのです」と著者は書く。「なにごともなく、晴天。」という言葉のあとには、かっこ付きで、(そんなはずはないけれど)と、つづくわけだそうだ。

著者は「まずいいコーヒーのことなら、いくらでも話していられる」という一行から、3つの連載小説を書くという実験(遊び)をやったそうだ。これには出典があり、種村季弘の『好物漫遊記』の冒頭のエッセイ「蝙蝠傘の使い方」で、「まずいコーヒーの話ならいくらでも書ける。」というものがあるそうだ。

「天国にいる探偵の物語」という探偵が天国で会いたい人の人捜しをする話という小説ネタのメモがあり、それと「父親に会いたい娘の話」のメモを結びつけて、本作は出来たらしい。ここに出てくる登場人物は、なんだかあくせくしていなくていい。まわりに振り回されていない気ままさがある。そして鉄道の高架下の商店街など、物好きな人たちしか集まってこない。鉄道が通る度に轟音がして、振動で揺れる。そんな中で生活していてもなんだかみんな楽しそうだ。探偵という職業の人物が自分の身のまわりに現れたことで、それぞれが自分の過去の人間が自分を探りに来たのかもしれないとザワザワする。そんな風に、誰でもひとつやふたつ秘密を抱えており、封印している過去があったりする。探偵が現れたことで起きるそれぞれの過去と人間関係の変化をめぐる物語だ。

深夜にゆっくりと柔らかく頭の上を通過していく謎の列車の音と振動、荒野のベーコン醤油ライスが抜群に旨い<ベーコン>姉さん、定食屋の太郎食堂のいい声の持ち主の大将と跡継ぎ問題、蔵の中の不思議なガラクタを売っているむつ子さんとそのアルバイト店員の私。そんな人物たちのささやかな日常が綴られる。温泉饅頭やクリームソーダがうまい喫茶店や銭湯、まずいコーヒー、そしてショートケーキ。大きな事件などまるで起きないが、味わい深い物語である。

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