映画『アマンダと僕』パリの街を自転車に乗って…戸惑いと日常の感情の揺れを丁寧に描く

パリで暮らす青年ダヴィット(バンサン・ラコスト)。近くに姉のサンドリーヌ(オフェリア・コルブ)が教師をやりながら母子家庭で一人娘のアマンダ(イゾール・ミュルトリエ)を育てている。ダヴィットはアマンダの学校帰りに迎えに行ったりしつつ、アパートの管理人や公園の木の枝の剪定の仕事などをしている。青年はアパートに引っ越してきた住人レナ(ステイシー・マーティン)と恋仲になり、そんな平和な生活の描写が冒頭から30分くらい続く。ところが、突然、町中の公園で無差別テロ事件が起こり、姉のサンドリーヌが死んでしまう。ダヴィットの恋人のレナも片腕を負傷する。突然、最の母を失ったアマンダ。ダヴィットは、一人っきりになったアマンダを連れて途方に暮れる。7歳の少女の後見人をどうするのか?アマンダもまた、なかなか母親の死を受け入れられない・・・。冒頭から事件を描くのではなく、30分後に日常の変化を描いているところが、この映画の魅力だ。

パリの人びとの暮らしを奇をてらうことなく丁寧に描きつつ、突然母を失って一人になった少女の孤独と戸惑い、そして叔父にあたる若い青年との関係の変化を穏やかなヒューマンドラマとして描いている。好感の持てる作りになっている。

「Elvis has left the building(エルヴィスは建物を出た)」という「どうしようもないこと」「もうおしまいだ」といった意味の英語の慣用句をめぐって、アマンダと母親のサンドリーヌのやり取りがあり、二人でエルヴィスの曲でダンスを踊る。この喜びに満ちたダンスシーンが、あとあとジワッと沁みてくる。そしてエルヴィスの慣用句は、ラストのウィンブルドンのテニス観戦場面で再び使われ、「諦めちゃいけない」という励ましの言葉となってアマンダに返って来るのもいい。

またダヴィットの移動手段である自転車も効果的に使われている。サンドリーヌとダヴィットがパリの街中を競争しながら走る場面は、娘とのダンスと同じようにかけがえのない場面として残り、ロンドンで再びダヴィットはアマンダと一緒に自転車を走らせることで反復させる。また、レナとの待ち合わせの場所に一人自転車で向かって、事件現場に遭遇する場面、あるいは夜にアマンダを自転車の後ろに乗せて走る場面など、自転車は重要な場面で効果的に使われている。

あるいは、二人で「走ること」や「歩くこと」も印象的だ。遅刻しそうになって学校へアマンダと二人で走る朝、二人の距離は縮まっていく。ダヴィットとレナは、アパートの窓越しに視線を交わし、ペンを投げた二人の関係は、夜の街を歩き、レナの実家の近くを歩くことで、少しずつ心の距離が近づいていく。また、母の死を知った憔悴のアマンダとダヴィットが歩く場面もやるせない。

ダヴィットが友人と町で再会して、なかなか姉の死を伝えられない悲しみの深さ。駅にアパートの新たな住人を迎えに行って、突然ダヴィットが泣き出してしまう場面。アマンダが叔母のところではなく、「今夜はダヴットといたい」と突然泣き出す場面。ささやかな登場人物たちの感情の変化を丁寧な演出で描いている。テロ無差別事件の描き方も劇的で煽情的ではなく、あくまでも受け入れなければいけない事実に留めている。


2018年製作/107分/PG12/フランス原題:Amanda
配給:ビターズ・エンド
監督:ミカエル・アース
脚本:ミカエル・アース、モード・アメリーヌ
撮影:セバスティアン・ビュシュマン
美術:シャルロット・ドゥ・カドビル
編集:マリオン・モニエ
音楽:アントン・サンコ
エンディング曲:ジャーヴィス・コッカー
キャスト:バンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティン、 オフェリア・コルブ、マリアンヌ・バスレール、ジョナタン・コエン、グレタ・スカッキ

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