非モテ男性オタクによるフェミニズム宣言

我々は生まれながらの善良な市民でもなければ、高貴な王者の一族でもない。窮境に迫られて、我々は美徳と技術を学んだ。囲い込まれたことは、我々をして世界に立ち向かわせた。善に向かうよう迫られた――これこそが賤民の道徳の系譜学であり、奴隷の復仇の別形態である。 ー呉叡人 「台湾、あるいは孤立無援の島の思想」より


私は加害性のある表現を愛好している。

ここではどのような表現を愛好しているか?といったような内容については、倫理上の観点はもちろん、あえて晒すことにあまり意味を感じないので具体的な例を挙げたりはしない。

しかしながら、他の人からみれば憚られるような表現を好み、性的に興奮を覚えてしまう人間である。

そんな私だが、昨今の表現の自由の権利を巡り「表現の自由を守る」と豪語する者たちの言説には大きな不信感を募らせている。

フェミニズムを攻撃し、女性を性的に消費する表現や加害性のあるエロ表現は公共の場所からは規制するべきであると主張するもの達を私的リンチするその様はあまりにも恐ろしい。

しかし私はそこでふと思う。

私は加害性のある作品を好み、消費する。
結局は彼らと同じ穴の狢なのではないか。
と。

この様な葛藤は私に自分自身の性癖の探求という、あまりに情けない旅へと連れて行くことになる。

加害性を巡る旅

私が加害性のある表現を好むようになったのはいつからだろうか。

詳しくはもう覚えていないが、小学生の頃には既にその片鱗をみせていたのではないか。と思う。

中学生では既に加害性のある表現を愛好するようになっていった。

つまり性癖というのに目覚めてからはずっと加害性と隣合わせでいたのである。

しかし、ずっと加害性のある表現を愛好していた訳ではない。

時に両者の同意に基づきながらも、どこか女性側に主体性があるフェミニズム的な作品を愛好し、その表現を楽しんでいた。

ここでは同意のとれた表現と定義しよう。

加害性のある表現と、同意のとれた表現。

私の性癖は以上のように矛盾し、その時の気分により加害性のある表現を楽しむ日と同意のとれた表現を楽しむ日に分けていった。

加害性のある表現を楽しんだあとと同意のとれた表現を楽しんだあと

ここで考えていきたいのは、加害性のある表現を楽しんだあとの自分と同意のとれた表現を楽しんだあとの自分の頭の中である。

つまり言えば、表現を楽しんだあと私は何を考えるかにある。

まずは加害性のある表現を楽しんだあとである。
加害性のある表現は私に強い興奮を覚えさせる。楽しんだあともジェットコースターに乗った後のように満足感と爽快感に包まれる。

勿論一定の罪悪感を覚えるのだが、それ以上に相手に主体性が存在しないことへの背徳的な興奮がその罪悪感を忘れさせる。

では同意のとれた表現を楽しんだあとはどうであろうか。

表現を読んでいる間は、確かに暖かい気分になる。

しかし暖かい気分といっても、春の暖かい季節の中で芝生で昼寝をする。といったような温かさではなくて、温水プールのような、本来は冷たいはずのプールが温かいという違和感を感じてはいるのだけどまぁ温かい。といった感覚である。

問題は表現を楽しんだあとである。
フェミニズムの要素を含む作品を愛好した後は私は例外なくとんでもない劣等感に苛まれるのである。

惨めで、自分自身はなにをしているのだろう。という感覚に陥るのである。

これまでに私は幾度となく失恋をしてきた。
上手く行きそうになっても、相手に同意の確認をするたった一言がでず、時間のせいですべてが終わってしまった。と言うこともある。

しかし表現の先のキャラクターは、ドギマギしながらも好きな相手に思いを伝え、同意を取り、二人の関係を発展させているではないか。

私は何をしているのだろうか。私に漫画で表現されているような人生が訪れるのだろうか。。

と加害性のない表現を読んだあとは、酷く落ち込むのである。

なので私は加害性のない、同意のとれた作品を読むのを敬遠するようになる。

その落ち込みを忘れた時や、
愛したい。愛されたい。といった欲求が絶頂に達した時はそういった加害性のない、同意のとれたフェミニズム的な作品を楽しむのだが、加害性のある作品を愛好する頻度と比べたら圧倒的に少ない。

この辛さが私を加害性のある表現へと駆り立てるのである。

フェミニズムを学び、自らの男性性を言語化する。

この様な状況下において、私はどうすればいいだろうか。

まずは、加害性のある表現を好きだ。と公共の場所では開示しないことである。

これは市民社会に生きる人としての当然の義務であると私は確信する。

男性と女性という不均衡がある時、女性側に不利になる表現を愛するという事を開示するのはあまりにも不誠実な態度である。

そのためにはフェミニズムを学び続け、フェミニズムの思想を吸収し、行動し続けなければならない。

フェミニズム宣言と書いたが、男性としては自分自身をフェミニストを名乗ることにいささかの違和感を感じている。

フェミニズムを男性のものにするな。という批判は正しいからだ。

逆にフェミニズムを語っているのにフェミニズムを徹底的に隠蔽するのも不誠実である。


しかし、フェミニズムを学び続け、行動する人間でありたいと思う。事は可能であろうし、男性のフェミニズムはそこまでなのだと思う。



第二は、自らを愛したいと願い続け、いつか人を愛せるときがくると信じ抜くことである。

自らを愛するということは他者の身体、精神をも愛するということである。自らを、そして他者を攻撃することなく、ケアを一方的に押し付ける事なく同意を取りながら共存していく。

そしていつの日か、愛することができる人と出会いたいと願う。(それは同性でも異性でも友人でも恋人でもいい。)

いつの日か、加害性のある表現を好まなくなり、同意のとれた表現を楽しむようになりたい。

しかし私の魂はこう囁く。

そんな事は不可能かもしれないよ。
愛する人に出会えないかもしれない。
人生は一度きりなのだから、加害性のある表現を楽しんだもんがちだし、お金儲けしたほうが勝ちだし、沢山の異性(私が異性愛者なので)と関係を持ったほうが幸せだ。と。


ここで最初に引用した呉叡人の一節を再び引用したい。

我々は生まれながらの善良な市民でもなければ、高貴な王者の一族でもない。窮境に迫られて、我々は美徳と技術を学んだ。囲い込まれたことは、我々をして世界に立ち向かわせた。善に向かうよう迫られたーー


確かに私は善良な精神の持ち主ではない。そして高貴な一族でもない。ただの非モテで加害性のある表現を好む愚かな一人間である。
しかし、この苦しみは私を美徳と正義に駆り立てた。

加害性のある表現を好むからこそ、公共の場所ではその加害性を徹底的に隠蔽し、フェミニズム、ケアに基づいた生活を志向しなければならないのだ。

いつの日か。すべての加害性を捨て去り、フェミニズムとケアに基づく同意を取り続ける人生を送る。

そう願う事が信仰であり、私の倫理だ。

最後に

私のこの苦悩は、普遍的なものとは思わないし、普遍的なものではないと信じているからこそ主語を私とし、私を主体として語ってきた。

しかし、私のこの経験が自らの男性性を解除し、克服したいと考えている他の男性にとって手助けになるかもしれないと考えている。

自らの加害性に苦しむすべての人に捧げたい。

2024/04/17



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