スイッチ

 私には誰にも言えない秘密がある。

 小さいころから表情に乏しく、周りからよく、「怒ってるの?」と言われた。そんな私を一番近くで見守りながら、その状況を不憫に思っていたのは両親だ。医療関係に従事していた父親が闇ルートの情報を入手し、私をA病院へと連れて行ったのが中学二年生のころだった。

 

 そこから私の人生は一変した。ただタイミングを合わせてスイッチを押すだけで、周りからの評価が上がり、特に上の人から可愛がってもらえるようになった。何も努力はしていない。努力せずに、周囲との人間関係をストレスのないものへと変化させた。エネルギーもさほど消費していない。ただ、指を一本動かし、スイッチを押すエネルギーさえあれば、状況を好転させることができた。しかし、難点もあった。そのスイッチはおへそにある。従って酷使しすぎると、お腹の調子も下降線をたどるのだった。その塩梅を見ながら上手にスイッチを使い、バラ色の人生の実現へ向かって私はひた走っていた。

 

 高校時代のことだ。どの高校にも、つまらない冗談を言って教室を白けさせる教師がいるだろう。我が校の場合、それが私の担任であり、なおかつ、進路指導担当だった。その先生の授業になると、私の左手人差し指は、おへそ付近にスタンバイし、いつでもスイッチオンできる状態を保った。先生がつまらない冗談を言う。教室には白けムードが漂う。こうなると私の出番だ。左手人差し指でそっとスイッチを押すと、私は楽しげに笑い出す。わざとらしさの欠片もない自然な笑いだ。最初のころこそ、クラスメートに、

「なんで、面白くないのに笑えるんだよ。点数稼ぎか?」

「お前って、笑いのセンス、ゼロだな。」

などと言われることもあった。しかし次第に、周りも私が心の底から笑っていると理解してくれるようになった(もちろん私は面白いと思っているわけではない。スイッチを押したことによる反射的反応が「笑い」というだけだ)。私につられて笑う者も現れ始め、いつしかつまらない冗談をめげずに言う先生の姿を、皆が面白く思うようになった。そして気づけば、その授業は笑いの止まないものとなっていた。この状態のきっかけを作った私に対して、先生はいい印象を抱いてくれたようだ。二年次の終わりには、学内推薦の話を持ちかけてきた。私は、なんの努力も苦労もせず、有名私大への入学を果たした。

 

 大学時代のことだ。自由になるお金が欲しくて、平日は毎日のようにバイトに精を出した。そこは個人経営の居酒屋で、バイトは私一人。大繁盛の人気店というわけでもなく、ほとんどが常連さんだった。毎日酔っぱらいの相手をしなければならないのは苦痛だったが、ここでもスイッチは大活躍だった。しつこく絡んでくる酔っぱらい客が現れると、スイッチオン。楽しげに笑う私に、客も上機嫌になる。すると大体、お酒などをごちそうしてくれたり、帰り際にチップをくれたりするのだ。その日のバイト代以上にチップをもらう日も少なくなかった。上手く客相手をする私を、店長も可愛がってくれ、時給はみるみる跳ね上がり、まかないも豪勢になっていった。卒業を間近に控えたある日、店長に大事な話があると呼び出された。

「将来的に、店を継いで欲しいと思っているんだが……。よければうちで正社員として働いてくれないか?」

 悪い話ではない。労せず一国一城の主となれる。しかし、私の野望は個人経営者ではなく、企業において一段ずつ階級を上げていくことにあった。このありがたい話は丁重に断り、卒業と同時に四年間お世話になった居酒屋に別れを告げた。

 

 卒業後、海外でも名の知れた大手企業のグループ会社で社会人として歩き始めた。業績次第で本社への栄転もあると聞き、迷わず決めた。私の上司は、本社を定年後にグループ会社に、いわゆる天下りのような人事で来た人だ。私はとにかく頑張った。自らの野望を果たすために。周りから「太鼓持ち」と陰口をたたかれていることも知ってはいたが、気にならなかった。上司に飲みに誘われれば、どんな私用をさしおいてでも参加する。タイミングを合わせてスイッチを押し、笑いによって場を盛り上げる。私の社会人生活は、私個人の働きより、スイッチの果たした役割のほうがはるかに大きかった。気づけば十年が過ぎていた。

 そんなある日、上司に呼ばれた。

「次年度の人事で、君を本社に推薦しておいたよ。今の社長は、新人のころに私が指導したんだ。間違いなくこの提案は通ると思う。だから少しずつ、次のステージでの仕事も、イメージしていってくれ。」

 とうとうこの時がきた。夢にまで見た瞬間だ。私は幾度も上司に礼を言った。

「もしよろしければ、今晩お食事いかがですか? お礼にご招待させてください。」

 一見さんお断りの、由緒正しき茶屋を予約し、芸者も呼んだ。

「こちら、旬のキノコの蒸し物です。」

キノコをつまみながらお酒もすすみ、上司は芸者相手に冗談を連発している。そろそろスイッチを作動させる時だ。私はいつものように左手人差し指でボタンを押した。

「ん?」

いつもと違う。何かがおかしい。さりげなく再度ボタンを触ってみると、押したボタンがおへそに入り込み、押しっぱなしの状態になっている。目の前が少し暗くなり焦る気持ちと裏腹に、私は笑った。

「おいおい、そんなに面白かったか?」

 笑い続ける私に上司が言う。

「君、大丈夫か?」

 なおも笑い続ける私に向かって、上司は少し心配そうな表情をのぞかせた。私自身も苦しかった。止めたくても止まらない笑い。頭に酸素がいかず、意識も遠のき始めている。

「キノコに混ざって、笑い茸でも入ってたか?」

 この言葉に、店の責任者は相当焦ったようだ。すぐに救急車が呼ばれ、私は担架で運ばれた。薄れゆく意識の中で、私は救急隊員にこう告げた。

「持病があるので、かかりつけのA病院へ。」

 救急車内にも私の笑い声が響き、満足に救急隊員からの問いかけに答えることもできないうちに、A病院に到着した。私は最後の力を振り絞り、A病院のスタッフに伝えた。

「おへそのスイッチが……。」

 

 気づくと、まぶしい光に照らされている。どうやらしばらくの間、意識を失っていたようだ。

「気が付きましたか? 応急処置として、ボタンは元に戻したので、ご安心ください。」

 笑い疲れからだろう。あごや頬に筋肉痛のような感覚があった。

「残念ですが、スイッチは壊れてしまったので、今から除去手術を行います。」

「わかりました。じゃあ、除去手術の後に、新たな埋め込み手術という流れですね?」

 すでに冷静さを取り戻していた私は、医師にそう尋ねた。

「いえ、このスイッチは再埋め込みができないんです。ですから、今後はスイッチなしの人生です。」

 医師の言葉は、私の耳を通り抜けた。

「二十年近く埋め込まれていたので、おへそもかなりのダメージを負っています。」

「じゃあ、別の場所にお願いします。」

「この『笑いスイッチ』は、おへそにしか埋設できないんです。」

 医師との間で押し問答が続いた。

「スイッチなしの人生……。」

 麻酔が効き始めたようだ。冷たい手術台の上に横になり、まぶしい光に照らされながら、私は今後の人生から色が失われていくのを感じていた。


「では、始めます。メス。」

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