消える

「『水に流す』ことができるこのペン。人とのわだかまりや他人にかけた迷惑など全てをなかったことにして、人生の再スタートがきれるという優れもの。さあ、今すぐお電話を!」

 深夜のテレビショッピングを見ていると、時々不思議な商品と遭遇する。水に流してほしい出来事を文字に起こして、その紙の上に水をかける。そうすると、その文字が消え、同時に書いた出来事自体が記憶からも消えるという文字通り「水に流せる」ペンらしい。ありえないと思いながらも気になる。税込五万円。五万円で今までの人生がリセットできるなら、と次の瞬間には携帯を手にしていた。

 一週間後に届いたのは、何の変哲もない黒い事務用のボールペンだった。これは一杯食わされた。そんなうまい話があるわけない。高い授業料を払ったと思ってあきらめよう。せっかくだから、話のネタにでもしようと説明書をめくってみた。

 「なになに……『一、ありのままの事実だけを自らの手で書くこと。水に流したい出来事とそれに伴う感情以外のことを書くと、その関係のないことまで闇に葬られるので注意。二、迷惑をかけた相手に最後まで読んでもらうこと。三、その人に水をかけてもらうこと』 親父に全てを暴露して水をかけてもらわなきゃならないのか。こりゃ、厳しいな。」

 顔を真っ赤にした親父に怒鳴られ、殴られる自分が容易に想像できた。しかし、それで親子関係が修復できるなら良い。そのきっかけにでもなれば、そんな気持ちでペンを取った。

「親父、ちょっと今いい?」

俺は意を決して話しかけた。

「ん?なんだ?」

その言葉がすでに怒りを帯びている。

「あの、これ、読んでもらえるかな?」

一年ぶりにまともに見た親父の顔は、少し年を取ったように感じた。

「どれどれ……『授業料を使い込んだのは、全て俺の虚栄心と弱さが原因。飲みに行ったりすると、だいたいおごってた。あとは、彼女にかっこつけたくて、高価なプレゼントをたくさんあげた。それから、周りからイケてるって思われたくて、ブランド物を買ったりした』 なんだこれ、懺悔の手紙か?」

「うん、まあ。俺の素直な気持ちを書いたから、最後まで読んで。」

「おう……『そんなことのために一年分の学費を使ってしまった。今振り返ると、お金のありがたみや、それを稼ぐ苦労を何も知らないガキだったと思うし、自分がしてきたことの愚かさがわかる。本当にバカだった』 お前もまだ若いし、人生をやり直すチャンスはあるから、今の気持ちを大切にな。」

「うん、ありがとう。結局この後すぐ大学もやめて、それから一年ぐらい、何もしないでブラブラして。でも、このままじゃダメだって思ったし、もう一度スタートラインに立ちたいって思ったから、今日こうして親父に手紙を書いたんだ。まだ続きがあるから。」

親父の顔が少し柔らかくなったように思った。

「……『それからこれは、まだ言ってないことなんだけど、二十歳の誕生日にくれた裏山の権利書、ツレにしていた借金の返済とか飲み代とかパチンコの軍資金とか、お金がほしかったから売っちゃったんだ。本当にごめん。謝って許されることではないのも十分わかってる。でも、全てを打ち明けないと新たなスタートがきれないと思ったから。今はガキでどうしようもない俺だけど、今日をきっかけに、もう一度自分を見つめ直す。そしていつか、親父と笑顔で酒でも酌み交わせたらなと思ってる。今日を人生の再出発点として、少しずつできることからやっていくから、見守っていてください。ヒロト』 お前の気持ちはわかった。」

親父は、意外にも冷静だった。

「実は、裏山のことは不動産屋から連絡があったから、知ってたんだ。もちろん許せない気持ちになったし、お前と親子の縁を切ることも考えた。でも、こうしてお前が包み隠さず話してくれたわけだし、今までのことは水に流そうと思う。」

予想外の展開だ。俺は、怒りに震える親父にどうやって水をかけてもらうか、いくつか作戦を立てていたが、どれも必要なさそうだ。

「親父、本当にありがとう。親父の気持ちに甘えすぎることなく、これからもがんばるよ。そしたら最後に、この件、水に流してもらえるかな?」

親父は少し不可解な表情を見せたが、俺が手渡したコップの水を、俺が言うとおりに、紙にかけてくれた。

 文字がみるみる消えていく。同時に俺も。

「あっ、最後に自分の名前を書いちゃ……。」

全てを言い終わる前に、俺は完全に消えてしまったようだ。俺という存在も、俺が存在していたという事実も、水に流されてしまった。

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