知らぬが仏

 木村には、悩みがあった。営業職ということも大きく影響しているが、一日に受け取る名刺の数が膨大だ。日々整理できれば良いのだが、残業も多く、雑務は後回しにしてしまいがちだ。そして、気付いた頃には小一時間ではどうにもならなくなっていて、結局、週末を潰して名刺を整理するという作業を行う。

 ある日、会社から最新型の名刺リーダーなるものが支給された。名刺を機械に読み込むと、あとは五十音順に並べ替え、会社ごとにグループ分けをしてくれるという優れものだ。最新型と謳う点は、その読み込み方にあった。従来型は、名刺を一枚一枚、手で差し換えていた。しかし最新型は、自動での紙送りが可能になった。その結果、一度に百枚までセットでき、一気に読み込めるようになった。この機械のおかげで、名刺の整理に時間も手間もかからなくなり、仕事もはかどった。

 木村の悩みも解消され、以前より仕事も軌道に乗ってきた頃だった。今日も退社前の時間を使い、名刺の読み込みと帰り支度を同時にしていた。雑務を処理してデスクに戻ると、名刺リーダー本体に、「アップデートしてください」というメッセージ。木村は更新ボタンを押す。すぐに終わるだろうと高をくくっていた。しかし、十分経っても二十分経っても完了されない。今日は早く家に帰ってのんびりしたかった。木村は段々、イライラし始めた。フロアからは、どんどん人が消えていく。更新が完了した時には、数えられるほどの人しか残っていなかった。木村は、帰宅するタイミングを完全に狂わされた。そうなってしまうと、何故か時間が気にならなくなる。アップデート情報には、「能力情報を追加」とある。木村は、せっかくだからと新機能を見てみることにした。

 ファイルの中から一枚の名刺のデータを開いた。それは、最近取引を始めたA社の担当者のものだった。

「A社を取っ掛かりとして、販路の拡大が十分に見込める。ここは手放すわけにはいかないな。」

 そんなことをつぶやきながら、データを見ていた。すると、名前の下にいくつかの数字が見える。信頼度・八、実行力・三、参謀度・十、総合・七。この人物の能力を十段階で評価したものだ。さらに具体的な戦略が続く。

「この人物は行動力は低いですが、上を陰で支えて助言する能力がとても高いです。この人物と直属の上司をセットにして商談に持ち込めば、高い確率でまとまるでしょう。」

 評価を下しているのは、所詮機械だ。木村は話半分程度に理解して、帰宅の途についた。

 今日の訪問先はA社だ。木村はふと、名刺リーダーのアドバイスを思い出した。物は試しに、アドバイスに従って交渉を進めた。すると驚いたことに、大きな商談が何の苦労もなくまとまった。木村は、味をしめた。

 それから、木村の仕事のやり方は明らかに変化した。ターゲットとなる企業に出向くと、様々な部署の多くの人と積極的に名刺交換を行うようになった。あとは、名刺リーダーの戦略を見ながら、企業内の人間関係を読み解き、交渉相手を決める。ほとんどこの流れでうまくいった。木村の社内の評価も給料も、彼の業績に合わせて上がっていった。

 しばらくすると、状況が一変した。どういうわけか、アポを取りつけることすら、ままならなくなった。木村は頭を悩ませた。自分自身の仕事のやり方は、これまでと変わっていない。となると、外的要因しか考えられない。年末や年度末ならわかるが、別に今は忙しい時期ではない。木村の会社が扱っている商品が、気候に左右されるようなものでもない。世界的に景気が低迷しているというわけでもなく、むしろ徐々に回復してきている。特別な原因も思い当たらぬまま、アポが取れず、身動きのとれない日々が続いた。

「木村さん、お待たせしました。」

 増刷依頼をした名刺が、庶務課から届いた。忙しくなった頃に、このペースだとすぐに名刺がなくなると思った。しかし今の状況では、週に一枚あれば十分だ。木村は闇の中で、脱出の糸口も見つけられずにもがいていた。

 何の気なしに、新しく刷られた自分の名刺を一枚取り出し、名刺リーダーで読み込んだ。信頼度・一、実行力・三、参謀度・二、総合・二。

「交渉相手に選んでも、一つも得がないほど無能な人間です。」

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