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アナログ鍵の失効リスト(4)

## その4 (13:16)

「ここよ、咲舞」

 26階にある社員食堂でランチ定食を購入し、お盆を持ってうろうろしていると、同期の悠乃が声をかけてくれた。咲舞のために席を確保してくれた。

「遅くなって、ごめんね」

「いいよぉ。さあ、食べよう」

昼食は悠乃と食べることが多い。

「一緒に来ようと声をかけようかと思ったけど、伊吹さんと話していたでしょう――なんか込み入った話をしていたようだから。あの人が指導係だと大変じゃない?」

「え、別に普通だと思うけど」――質問の意図が分からない。

「私、あの人苦手なのよね――」

「そうなの?」びっくりしてしまった。

「だって、部内でも変人って有名じゃん。私も携わっている案件で利用している技術で分からないことがあって――担当内でも誰もわからないっていう話で――あの人が一番詳しいって聞いたから質問に行ったの。そしたら、懇切丁寧に……」

「説明してくれた?」

「まさか!自分がどれだけ重要な作業をしているか、急ぎのタスクががどれだけあるかを、バーと話し始めたの。そして、君の相談に乗ることがこれらよりも重要なことなのか?と聞かれたわ。そんなふうに言われたら、こちらとしてももういいです、になるでしょう。もう二度と、あの人には話しかけないって決めたの」

 いかにも伊吹らしい話であった。悠乃には悪いが実際のところ、伊吹の言っていることの方が正しいのであろう。たぶん、その時の伊吹には悠乃の相談より優先順位の高い(これは重要かつ緊急という意味だ)タスクがたくさんあったのだろう。言葉が足りないせいで、先輩は不要な誤解を受けることが多い。しかし、本人はそんなことは全く意に介さない。周りの評判を気にせず、自分のやるべきことをやっているだけだった。そして、そんな姿勢はどこか咲舞の父親に似ているような気がしている。

***

 そんな話をしながら、咲舞は伊吹との初対面のことを思い出した。この組織に配属され自己紹介をし、西蓮寺会長の姪であることが伝わった後の反応は、大きく2通りにであった。一つは、どう接していいか分からず必要以上に気を使ってくる(この場合の筆頭は江森課長だ)、もう一つはあくまでも新入社員として扱ってくれる(花山先輩や悠乃がこれにあたる)のどちらかであった。しかし、伊吹の場合は西蓮寺博士の娘であることにとても興味を持ってきた。

 咲舞自身の話は程々に、執筆をしていたGoFデザインパターンの解説本の続編の遺稿は無いのか、研究をしていた量子コンピュータによる楕円曲線アルゴリズムへのアプローチに関しては、然るべき研究者に引き継ぎが行われているのか――などを聞いてきた。父の仕事に関してはほとんど知らないと答えたところ、あからさまに残念な顔をされた。それからはソーシャルネットワーク上で質問を投げかけた時に西蓮寺博士が親切に回答してくれたと思い出を語った。そして最後に「あなたの父上が書いた本で、僕はプログラミングを学んだ」と言った。 

 それからは今までの半年間は伊吹と同じ案件を担当することになったが、伊吹の論理的思考力が非常に優れていることはすぐに分かった。咲舞は自分より頭がいい大人(西蓮寺博士は除外する)に初めて会ったと感じた。伊吹は直面する問題――会社では実に多種多様な問題がいつも発生していた――に対して、問題自体がどこにあるのか、何が課題なのか、ということまず明確にする。そして、いくつもの解決策を仮説として定義し、それらを一つ一つ検証していった。検証のスピードは咲舞より断然に遅い――と言うよりも平均より遅いのではないかと思うことがある。しかし、その仮説は、全方位に指向され、抜け漏れが全くなく、必ず正解がその中にある。こういった思考は私にはできない。確かに難しい専門用語を多用したり、補足情報が足りないところは多いが、必ず最善の手段をとっている。そんな伊吹が社内では高評価ではないのはおかしな話だ。まあそれは伊吹の偏屈な性格な災いしているからだろう。

***

「――ねぇ、何ボォっとしているの」悠乃の声で現実に戻された。

「なんでも無い、ちょっと考えこと」

「その割には、ずいぶんと惚けた顔をしてたけど。頬も紅いよ」

「ちょっと風邪気味なの。最近、寒いから。――もう戻りましょう。席も混んできたみたいだから」と水を飲み、席を立った。

 食堂を出てエレベータホール――朝と同様に昼の時間も混雑している――に向かう途中、咲舞は午後から掃除であることを思い出したので、「そういえば、そちらの担当は大掃除進んでいる」と尋ねた。

「私に丸投げされたわ。新入社員の辛いとこだよね」

 悠乃の担当は年齢層が高く、若手社員があまりいないとのことだった。咲舞はチームメンバには恵まれているかな、と改めて思った。

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