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アナログ鍵の失効リスト(9)

## その9 (32:45)

 翌朝、伊吹は通常よりも少しだけ早く出社した。そして直接33Fのサーバ室に立ち寄って見た。誰も居ないサーバ室は朝の静謐を保ちながら、コンピュータの起動音だけが響いていた。第四開発担当が管理しているエリアまで向かうと、複数の南京錠とワイヤーフレームで扉が何重にもにロックされているラックを見ることができた。やり過ぎじゃないかなっと苦笑した。

 昨晩、咲舞は近くのホームセンタで購入した鍵で、ラックに新しい鍵をかけた。これにより既存の鍵――これは昨日紛失した鍵のことだが――を利用したところでサーバにさわることはできない。デジタルの世界ではセキュアな通信を行うために電子証明書という仕組みがある。その管理を行う認証局には、その証明書が紛失または第三者にわたってしまった場合に、そのアクセス権を無効にする仕組みがある。これを証明書の失効リストと呼ぶ。今回はその仕組をアナログ世界に輸入したわけだ。いや、アナログの鍵の管理が先にあり、それをデジタルがトレースしたわけだから逆輸入か――そんなことを思っていると、背後から近づく気配がする。

「おはようございます。やっぱり見てくださりましたね。どうです?バッチリでしょう」

 白いブラウスにオレンジのスカートを履いた咲舞が自慢気に話しかけてきた。

「何も問題はない――ただ少しやり過ぎじゃないかな」

「昨晩のいらだちを全てぶつけたのです」と少しすねた表情を見せる。「でもいいんです――先輩がこうして見てくれたから」

 伊吹にはなぜ昨晩はいらだって、今朝は良かったのかが分からなかったが黙っていた。

「よし、じゃあ下りよう。朝会が始まる。どうせ大した内容の朝会じゃないけどね」

「あっ、それともう一つ――」部屋を出ようとする伊吹を呼び止める。「紛失した鍵ですけど、見つかりました。やっぱり集配センタに集められていたキャビネットの中に有りましたよ。どうです?やっぱり私の言った通りでしたでしょう」と満面の笑みを見せる。怪訝な顔をする伊吹に構わず咲舞は続ける。

「実はですね。配送の業者なんですが、うちのグループの会社の一つでしたの。それでそこの社長なんですが、以前にパーティかなんかでお会いしたことがあって。それを昨日帰ってから思い出しまして。叔父を経由して連絡先を教えてもらったんです」

「まさか……それで連絡したの?」

「ええ、私としては急ぐつもりではなかったのですけど、ちょっと確認したいことがあると言ったら『すぐに対応します』って。仕事ができる方なのかしら。一時間もしない内に折返しがかかってきたわ」

 伊吹は目を見開きながら、咲舞をみつめる。その瞳に映る彼女は、こっそり良いことをして褒められることを期待する子どもそのものだった。伊吹は彼女の笑顔に圧倒されると同時に、昨晩何名の社員が動いたのだろうかと、輸送会社の現場の混乱を想像する。現場に探索の指示が伝わるまでに、何人の管理職の携帯電話が鳴ったのだろう。その探索作業を行った人が10人いるとして、1時間では――金額にすると10万円弱の労務費がかかったことになる。そして何より近代的な流通はシステムにより管理されており――これをサプライチェーン・マネジメントと呼ぶ――その運用に影響はなかったのかを考えると、瞼が引きつった。この子には技術よりも先に身につけるべきモラルがある。

「どうしました。先輩?早く行かないと朝会に遅れちゃいますよ」

 可憐なソプラノの声が、無人のサーバ室に響き渡った。

***

* 冒頭の引用文は、『暗号技術入門 秘密の国のアリス』(結城 浩著 SBクリエイティブ)によりました。また本文中のセキュリティ技術の説明も同書を参考にしています。
* 外来語のカタカナ表記はJIS Z8301によっています。また専門用語は特定のプロダクトに依存しないように努め、普遍的な言葉を選んでいます。ただし、登場人物の言葉/思考に関しては音のリズムを重視したため、その限りではありません。


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