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アナログ鍵の失効リスト(1)

# アナログ鍵の失効リスト -Moral over Technology-

> 私たち人間は古代から、暗号技術を進歩させてきました。コンピュータとインターネット時代の現在においても、その歩みは続いています。しかし、コンピュータを使ったからといって、完全な暗号技術が実現できているわけではありません。そこには、必ず人間――不完全な私たち――が介在するからです。(暗号技術入門 秘密の国のアリス/結城 浩)

## 登場人物

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|:---|:---|:---|
|**S-tech社 開発部門 第四開発**|||
|江森 義明|(えもり よしあき)|課長|
|大江 弘|(おおえ ひろし)|係長|
|佐野 成悟|(さの せいご)|係長(出向中)|
|伊吹 創介|(いぶき そうすけ)|社員(入社8年目)|
|花山 佑希|(はなやま ゆき)|社員(伊吹と同期)|
|篠原 宏彰|(しのはら ひろあき)|社員(入社5年目)|
|福永 文人|(ふくなが ふみと)|社員(入社3年目)|
|西蓮寺 咲舞|(さいれんじ えま)|社員(新入社員)|
|**咲舞の関係者**|||
|青柳|(あおやぎ)|咲舞の執事 兼 運転手|
|稲野 悠乃|(いねの ゆの)|咲舞の友人。同期入社|
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***

## その1 (08:55)

 伊吹創介は朝から不機嫌であった。通勤路線で事故があり、ただでさえ混み合う車両がさらに高密度になっていたからだ。12月の冷たい雨を受けて、車内の暖房が効きすぎていたのもいただけない。蒸暑さと息苦さで、出社前から体力をすり減らしてしまった。なぜこれほどまでに通信インフラが整備された世の中で、律儀に会社という空間に集まらなければならないのか。コミュニケーションの手段はメールやチャットで十分だし、会話をしたければIPを使ったテレビ電話を活用すればいいではないか――そんなことを考えながら、電車を降りた。結局のところ、人は他人と顔をあわせたいという欲求から逃れなれないのかも知れない。

 社員証を鞄から取り出し、ビルの警備員の検問を抜けると、エレベータホールは始業直前の駆け込みで渋滞を起こしていた。当然エレベータも満員である。ようやく伊吹が所属する部署のフロア――38階建ビルディングの32階である――にたどり着くと、始業のベルが余韻を残しているところであった。32階には約80人程度の社員が働いており、フロアは横長のレイアウトで、向かい合わせたデスクが縦に何列も並んでいる。自分のデスクが近い扉からフロアに入ると、多くの社員がレインコートをロッカに掛け、慌ただしくPCを起動させていた。そんな中、一人涼しい顔でティーカップを持っている女性がいる。今年、入社をした西蓮寺咲舞であった。

「西蓮寺さん、電車遅延しなかったの?」

 咲舞はカップをソーサに静かに置き、利発な二重の目と、百点満点の笑みと、夢見るような口元をこちらに向け、上品に口を開いた。爽やかな声のさざなみが、無機質なフロアの中のあらゆるものを潤していった。

「ええ、今日は天気が悪かったでしょう。青柳が送ってくれるというので、お言葉に甘えさせてもらったんです」

 青柳というのは西蓮寺家が咲舞のために雇った執事かつ運転手らしい。そのどちらの職種も伊吹には龍や麒麟と同じくらい馴染みがないが、おそらく黒い洋服を着て紅茶を入れ、運転の際には白い手袋をしているんだろう。咲舞お嬢様に危機が迫った時は、内ポケットから護身用の小銃を取り出すかもしれない。

 こういった表現は、西蓮寺家の家柄を考えると大げさではない。咲舞の父親は日本における情報工学では名の知れた学者であり、特に情報の暗号化分野では多大な功績を残していた。一般にはあまり有名ではないが、論文や著作が多数が有り、この分野では著名であった。彼が早くして亡くなってしまったことは、日本のICT発展の大きな損失であったと伊吹は考えている。さらにその弟――すなわち咲舞にとっては叔父にあたり、こちらは存命かつ現役――は、外国資本を引っさげて、元国営企業の寡占であったこの国の通信インフラ業に名乗りをあげて成功を収めている。一代にして巨大グループを形成し、傘下に様々な企業を抱えるコングマリットとなった。伊吹と咲舞が働くこの会社も、自社グループ向けのシステム開発を行っていた部門の独立によって誕生している。すなわち企業総帥の姪が、末端のグループ会社に新卒入社し、伊吹と同じチームに配属された。これはフロア内でも大変な話題になった。

 ようやく開発用のPCが立ち上がり、マウスの処理中アイコンが通常のそれに変わったころ、伊吹の(そして咲舞の)上司である江森が扉から現れた。

「えー、すみません。おはようございます、あの、電車が遅れたもので――朝会を始めます」

 伊吹とほぼ同時に咲舞も席を立ち、江森の席の周りに集まった。

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