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アナログ鍵の失効リスト(7)

## その7 (18:12)

 伊吹は新規提案の概算見積を終え、38階から屋外にでたところ(これは37階の屋上と同義である)にある喫煙所でタバコを吸っていた。営業担当からの依頼というのはいつも急でこちらの都合を考慮してくれない。今回の案件は小規模であったためm比較的早く終わらすことができていた
 
 日は短くなっており、前回の煙草休憩(伊吹は一時間毎にニコチンを摂取する)の際にはオレンジ色だった空はうす暗くなり、薄い三日月とまだ陽の光に遠慮している星達が見えた。

 背後で扉の開く音がした。

「やっぱりここにいましたね」

 普段よりトーンが高い咲舞の声だった。

「どうやらうまくいったみたいだね」

「はい、先輩から借りた鍵で、なんとラックが開きました――まるで魔法の鍵。それでですねm篠原さんは予定通り作業を進めています。大江さんも安心して、仕事を続けています。福永さんは今さっき帰っていったみたいです」

「課長はなんて?」

「大江さんが最初に連絡してくれたんですけど、『明日までに何とかしろ。セキュリティ事故にするな』の一点ばりでしたが、まあ、これで大丈夫でしょう」

 伊吹はタバコを一口吸い、紫煙を吐きながら顔をしかめた。

「あの……先輩」

 咲舞は、伊吹の顔を覗き込みながら両手で鍵を差し出した。

「魔法の鍵をお返しします。それと私なんだか興奮しています」

「え、何で?」
 
 伊吹は鍵を受け取り、社員証のストラップに付いているキーホルダにつけた。咲舞の言っていることがよく分からなかった。

「だって聞いてくださいよ。私この会社に入って、緊急事態だってことが今までないんですよ。そりゃ経験も少ないし、大したこともしてないから当然なんでしょうけど。それがですね、今回の一件はチームをあげて一大事って感じがして、本当にドキドキしてしまって」

「そう」

「――これって不謹慎でしょうか」

「いや、そんなことはないよ」

 伊吹は言葉を選びながら少しづつ答える。「それは君がいい意味でこの仕事に慣れていないってことなんだ。染まっていないていうのかな。この仕事は大小かかわらずトラブルはつきもので、僕なんかは洒落にならないようなインシデントに沢山出くわしてきた。そのたびにね――そいういった気持ちは薄れていって、薄いベールが何重にも重なるように、そういった気持ちを感じなくなってきている」――咲舞は静かに聞いていた。

「だからそいういった気持ちはできるだけ大事にしていった方が良い」

 咲舞はゆっくり頷いた。

「それで後学のために教えて欲しいですけど、その鍵は一体何ものですか。まさか特注して、隠れて泥棒稼業に従事しているわけではないですよね」

「ああ、これね。別に特注でもなんでもなく普通に売っている鍵だよ。サーバラックと言うものは良くも悪くも量産されているものでメーカも限定される。そのため全てにおいて別の鍵が作られているわけでもないし、管理的煩雑さを避けるためにこういった鍵も流通しているんだ」

「セキュリティってなんなんですかね」と咲舞が大げさに肩をすくめた。

「セキュリティは技術ではない。モラルだよ」

 伊吹にしては珍しく格言らしきものを述べたつもりだったが、咲舞は首をかしげた。

「まあいいです。今後も篠原さんが鍵が必要になったら貸してくださいね」

「それはできない」ときっぱりこたえた。

「――えっ?」

***

「――えっ?」吃驚してしまった。「そんな意地悪はしないでもいいじゃないですか」

「意地悪でもなんでもないよ」困惑している咲舞を前に、伊吹は説明するように話した。「鍵が無くなった。事実だ。しかもその鍵はこの世から消滅したわけじゃない。その鍵を拾った誰かが、悪用するという可能性は残っている」

「でもですね――その鍵は回収されて、集配センタに配送されましたよ。誰も手にすることはできません」

「それは君の仮説に過ぎない」

 考えが否定されたような気がした、

「ですが、限りなく立証された仮説です。絶対間違っていません」

「じゃあ、エビデンスはあるかい」咲舞は頭の中の辞書を引く。エビデンス――証拠。そんなものがあるわけない。

「もし悪意を持った人が隠し持っていて、今日の夜にサーバ室に潜り込んで、サーバを破壊しないって言い切れる?」

「そんなことは常識的にありえません」

「まあありえないだろうね。けど残念ながら、現状では課長がいった『セキュリティ事故にするな』という要件を満たしていない」

「それは『事故として上に報告はするな』という意味です」

「そりゃそうさ。誰も面倒事を抱え込みたくはない」

「先輩はこのことを公にしたほうがいいと言っているのですか」咲舞は伊吹に詰め寄った。

「僕だって面倒はゴメンだ。さっさと帰って、ビールを飲んで寝たいんだ。それにエスカレーションの話をしているではないよ。モラルの話をしている」

 咲舞の思考のサブスレッドが「あれ、先輩ってビールを飲むんだ」と思うと同時に、メインスレッドはだんだんといらだちを覚えてきた。よくわからない理屈を言うから伊吹は変人だと思われる。とはいえ、伊吹の話には理解できる自分も確かにいる。伊吹は手に持ったたばこを消しこむと、「ここは寒くなってきたから、別の場所で少し整理をしよう。時間はあるかい」と尋ねた。咲舞は頷きながら、伊吹とともにビル内に入っていった。

 エレベータを待って横に並んでいる途中に伊吹は中空の一点を見つめている。咲舞に仕事の説明の段取りを考えている時の表情だった。なにかを説明してくれるのかも知れない――咲舞は伊吹に集中する。そして、伊吹は口を開く。

「そういえば社内認証局の証明書の更新を忘れていた。いつまでだっけ?」

「はい?」間の抜けた返事になってしまった。どうしてこのタイミングでそんな話題を?

「この間の復習をしようか。ユーザが証明書を紛失した場合、認証局はどんなオペレーションを行うだろうか?」

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